夜明けの海
奴がこの時代に来てから、五日が経った。
最初こそ驚きはしたけれどそれも数日経てば慣れるもので、今では未来から来た事を除けばそこら辺に居る国々と然程変わらない事に気付いた。
未来の技術がどうのこうのと言う話はタブーだから聞かないし、俺も聞こうとは思っていない。栄光は自分で掴み取るからこそ素晴らしいのだから。
けれどいつまでも奴がここに居ていいと言う訳ではなく、それは本人も分かっている筈だ。
時が解決してくれるとも言い難いし、その所為で何年も時間が経ってしまえば奴が居た時代に追いついてしまう。そうすればどうなるんだろう、あまり良くない事は目に見えてるな。
そんな理由があるからこそ、あいつは早いとこ帰らなくちゃいけないんだ、元の時代に。
しかしその方法が分からない。魔法か何かの影響なのかもしれないし、はたまた別の次元の話なのかもしれない。そう言う類に長けているとは言え、きっかけが分からない以上俺にはどうすることも出来なかった。
あー、何してんだろうな、俺。別にあいつの事なんだから俺が助ける理由なんてないだろ。あいつは俺と同じ国なんだし、今ここで未来の奴の存在を潰してしまえば大英帝国の寿命がうんと延びる筈だ。
なのにその芽を摘み取らずにましてや逆の事をしてしまうなんてどう言う風の吹きまわしだ、ええ?俺は血も涙も無い大英帝国様じゃねえのかよ、馬鹿。
自分でも腑抜てると思う。あいつが来てから調子が良くないと言うか、狂ってる。胸の内がもやもやする。きっと眉間の皺も増えている。
その理由が分かっているからこそ余計にそう思うんだろう。ああいらいらもやもや。うぜえ、俺は何処かの淑女か、馬鹿。
頭を掻き毟りたくなって見ていた書類を放り出す。これじゃあ仕事にもならない。落ち着きたい、コーヒーが飲みたい。
手で目を覆って立ち上がり、頭を軽く振るう。浮かんでくるアホ毛に悪態を吐いて靴をかつり、と鳴らした、…までは良かった。
「あああ、アーサーっ!」
嵐がやってきた、と思った。
直感的に何か良くない事が起きたのは分かる。奴がとんでもない形相でドアを開けてきたからだ。
ばたん、とドアが壊れる位に大きな音を立てて入ってきたアルフレッドは足を止める事無く俺に近付き、戸惑った様子で口を開閉させる。
相変わらずこいつはノックと言う言葉を覚えない。その所為で礼儀を一から叩きこんでやりたいと思ってしまうが、今の俺にそんな余裕は残されていなかった(誰だよこいつを育てた奴は…マナーを弁えろよ)。
仕方なく溜め息を吐いて近付いてくるアルフレッドの顔を遠ざけ、俺はテーブルに手を付いた。
「なんだよ、忙しい時に邪魔すんな」
「ど、どどどどうしよう、俺どうすればいいんだい!?」
「んなもん俺に聞くな。まず何があったか言え、話はそれからだろ。馬鹿」
壁面に背を付けて腕を組み、俺は少しだけ首を傾ける。いつも頭の上に乗っている帽子は既にスタンドの方へ掛けられている為、ずり落ちると言う事は無かった。
アルフレッドはそんな俺の反応を見て少し落ち着きを取り戻し、口の中でもごもごと説明の言葉を探っているようだった。
そしてこちらをちらりと一見し、また困ったように眉尻を下げる。何なんだよ、意味分かんねえ。俺を見てからそんな顔するのは失礼だろ。
心の中がまたもやもやしてくる。今度はこれと言った特別な理由じゃなくて、不快感による苛々。眉間の皺がまた一つ増えてアルフレッドはびくりと肩を揺らした。
「わ、笑わないでくれよ?本気で困ってるんだから」
「良いから早く言え」
「あー…うー、…その、クルーの人達にさ、飲まされちゃったんだ」
「あいつ等が?何を」
「…媚薬」
…は。
ぽかん、と口を開けて出たのはそんな間抜けな声だった。今までこんな声を出した事なんて数える位しか無かったのに、自然と出てしまった。ああ、我ながら恥ずかしい。
…じゃなくて!こいつは今なんて言った?媚薬?言葉の意味を理解したくない単語だな、おい。
だからそんなに息切れしているのか?走ってきたから顔が赤くなってた訳じゃあないって事か?そんな、馬鹿な話がある訳ないだろ。
よりにもよって俺の船員がそんな物持っている筈が無い…とは言い切れなくて、頭を抱えた。こら、変な顔すんな。別に俺が渡した訳じゃねえよ!
じゃあ本当に盛られたって言うのか、媚薬を。そしてこいつはその対処法を俺に聞いていると言う訳か。ok、分かりたくなかった事実を有難う。後で盛った奴には処罰だな。
「…それで、効果はどうなんだ。副作用とかある奴か?」
「た、ぶん無いと思う…それ程強くないし、一晩位で切れるって言ってたんだぞ」
「なら良い。辛いんだったらさっさと寝ろ。客室が嫌なら隣の部屋使え」
戸惑いの表情をありありと見せる奴にてきぱきと指示を出していく。親指で隣に繋がっているドアを示すと、アルフレッドも視線をそちらへと寄越した。
そしてまたこちらに視線を戻して、でも、と呟く。だが言いかけた言葉は奴の口から出ようとした所で自らの手で押し込まれ、もごもごと声がくぐもる。何を言いかけたのかは俺には分からなかったけれど、きっと無意識に出た言葉なんだろうな。
奴には分からないように薄く溜め息を吐いて目を伏せ、それ以上奴の顔が視界に入らないようにする。誰も男が欲情してる顔なんて見たくないだろ。そっちの気があるなら別だが、生憎と俺は女しか興味ねえ。
早く出て行く事を願いながら袖の奥で指をトントンと叩いていたら、瞼の向こうでアルフレッドが動いた気がした。あー、やっと仕事に戻れる。
「あー、さー」
ぎゅむ。ぎゅううう。
そんな音がする程に掴まれた腕に、ぎょっとした。ああ、いや、うん。ちょっと待て。これは一体どう言う状況だ、意味分かんねえぞ。
なあ、アルフレッドって俺より背が高かった気がするんだが気の所為か?いや実際そうだから気の所為なんかじゃないよな。じゃあ何でこいつ上目遣いしてるんだ。そして何で俺をそんな目で見るんだ。
理解不能な映像が目の前に広がっていて目を瞬かせる。でも映像は乱れる事無くそこに存在していた。現実だと言うのか、この状況が。
やばい、頭がぐらぐらしてきたかもしれない。状況が飲み込めない。声も出ないし、身体も動かない。それなのに引っ切り無しに奴の声が耳に届いてくる。
あーさー、あーさー。舌足らずに発せられる俺の名前に変な気持ちになる。何だこれ、なんだこれなんだこれ。なんでそんな声出すんだよ気色悪い。お前子供じゃないだろ、年相応の喋り方しろよ。いつもみたいにはきはきと喋れよ、なんでそんな妙に甘ったるい声出すんだよ。
思わず鳥肌がぶわわっと立って、目の前の現実から目を背けたくなる。最初に出会った時にこいつが言っていた現実逃避ってのは正にこれの事なんだろうな。
無性に暴れ出してしまいたい気分になって無理矢理にでも身体を動かそうとした瞬間、ぐいっと圧倒的な力によって俺はその場から引っ張られた。
「…なあ、何してんだよお前」
「ごめん」
「未来じゃ俺とお前は友達じゃあなかったのか?」
「…ごめん」
「嘘、吐いてたのか」
「…ごめん」
謝る位ならこんな事するなよ。なあ、俺とお前はなんなんだ?未来じゃ俺達は何をしているんだ?
抱きすくめられて間髪入れずに頬にキスなんてするか、普通。友達だからってやり過ぎじゃあないのか?
それにそんな後悔してるような目で見られたら、拒めねえだろ。男にされて嬉しい訳じゃねえから嫌だけど。
でも怒鳴るに怒鳴れなくて、俺は何故か妙に落ち着いて喋る事が出来た。どうしてかは分からないけど、何となくこいつの表情を見たら怒れなかった。俺の部下が原因だからもしかしたら責任を感じているのかもしれない。
掴み掛けた腕を仕方なくそのままにすると、アルフレッドはぎゅう、と俺を抱きしめる力を強めた。痛かった。
「ごめん、ごめんね」
「もういいから謝んな。あと確認しとくけど今のこの状況は全部薬の所為か?」
「違うよ!…そりゃ、ちょっと位はあるかもしれないとは思うけど、でも」
「それ以上喋んな。寒気がしてくる」
うぐ、とアルフレッドは喉を詰まらせるが、俺は事実を言ったまでだからもちろん謝る事はしない。現にまた鳥肌がぽつぽつと立ってきた気がするしな。
とりあえずこの状態は気分的にもあまり良くないので静かに奴の胸を押して身体を引き離す。アルフレッドはしょんぼりと分かりやすい反応を返してきたが、俺はそれを軽く無視してやった。
何故ならここはまだ船長室だからだ。船の主たる者が居座る場所で後ろめたい気分になるのはこの場所を使ってきた者達に対して失礼過ぎる。
盛るならしかるべき場所でしろと、捨て犬の様にしょげる奴を睨み付けて俺はテーブルにばらまかれた書類を纏めた。
そしてその場を動こうとしないアルフレッドの腕を引っ張って隣室へと歩を進める。物に囲まれた中にぽつりと存在するダークブラウンのドアを開けると、そこには客室よりも一回り大きな部屋が広がっていた。
この寝室は船長室と前方の甲板に繋がっている部屋なのだが、船首部にあたる甲板は出入り口がこの寝室しかない。なので実質的には船長しか使わない部屋になっている。
けれど何故かベッドがシングルとダブルの二つが置かれていて、俺が船長になった今でも何故二つあるのか謎のままだ。きっと歴代の船長が持ち込んだんだろう。
使っていないシングルの方に外套を放り投げて、近くのベッドにアルフレッドを座らせる。暑そうにしていた奴のジャケットも一緒にベッドに放り投げて、俺は眉を寄せながらがしがしと頭を掻き毟った。
「そこで待っとけ。出来れば寝てろ」
「何処に行くんだい…?」
「部下と少し話すだけだ。直ぐそこだしな」
ベッドがぎしりと音を立てたけれど、俺は振り向く事無く甲板に出るもう一つのドアを開けた。途端にひゅっと潮の香りと共に風が室内に入り込んでくる。
後ろ手で軋むドアを閉めれば籠っていた波の音がクリアになって耳に届き、ざざ、と心地良い雑音が胸の中にあるもやもやを取り除いてくれた気がした。
さて、俺はどうすればいいのだろう。むしろどうするべきなんだ。出来ればアルフレッドには眠っていて欲しいのだが、さっきみたいな状況だとそう簡単に眠ってくれる筈が無い。
ならどうするか。消去法で答えを探るけれど、考える度に目の前が真っ暗になっていく。最後に行きつくのは結局はその、あれだ。認めたくないし考えたくも無いけれど、あれしかない。
どうせ未来じゃそう言う関係なんだろうし(あんな事すれば何となく予想はつく)、今更どうたって…、あるに決まってんだろ、馬鹿。
「ああ、ジーザス」
この俺にどうしろって言うんだ(答えは諦めるしかないと言う事なんだろう!分かってるけど現実逃避したくなるんだよ、ばかぁ!)。
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[2010.04.09]