夜明けの海
落ち着いたか、と心底疲れた様子でアーサーは俺にカップを手渡した。
なみなみと注がれていたのは彼がいつも飲んでいる紅茶…ではなく、もっと濃く黒い色をしたコーヒーだった。
普段なら出される筈がない(自分で淹れろって言うし)飲み物にぎょっとしたけど、紅茶が飲みたい訳では無かったので口に出しかけた文句は寸での所でストップさせる。
珍しい事もあるんだなあと思いながらこくりと喉を鳴らし、ほうっと息を吐く。視界はクリアに戻っていて、涙はもう出ていなかった。
ぼろぼろと見っとも無くアーサーの目の前で泣いてしまった俺は、あの後直ぐに別の部屋へと連れて行かれた。
目を拭っていた所為で何処に向かっているのか分からなかったけれど、船底の方じゃない事だけは分かってほっとした。だって、牢屋って船底の方にあるじゃないか。あんな対応されたらそこに入れられると思うじゃないか。
それなのに連れて行かれた場所はここ、船長室だ。道中にすれ違った部屋とは大分違うその豪華さにやっぱり船長さんって凄いんだなって思ってしまう。絨毯だって綺麗に敷かれていて、床の音がこの場所だけ静かになってる。
とんとん、と踵で床を叩いて足を上げる。来客用の為なのか、ソファに座らされた俺は体育座りをするように身体を縮こまらせた。
「お前、変な奴だな」
「…君に言われたくないよ」
「何だよそれ。まるで知ってるみたいじゃねえか…。いや…知ってんだろ、俺の事」
「…たぶんね」
アーサーも自分のコーヒーをカップに注いで、こくり、と喉に通していく。手は真っ白な手袋に覆われていて、この時からもう手袋はしてたんだなって思った。
彼の答えに曖昧な返事をしたからか、アーサーは訝しむようにぎゅっと眉毛を歪ませる。俺と彼との距離は少しあって、その所為でまるで眉毛が一本に繋がってる風に見えておかしかった。
確信はまだないけど、彼がアーサーだと言う事に偽りはなさそうだから、俺は言葉を選びながら言葉を発する。
いつもは空気を読まずに色んな事をずばずばと言っちゃうけど、あれは敢えて空気を読んでないだけで、実際にはちゃんと考えてるんだからね。
カップの中の自分の顔を見つめて(見え辛いけど目が腫れてる気がする)、また一口コーヒーを飲み込んだ。美味しい、けどやっぱりアーサーが淹れたとなると少し違和感を感じた。
「ねえ、俺の話をする前に一つ質問していいかい?」
「それでお前の気が済むのなら。終わったら俺の質問に答えろよ」
「分かってるよ。じゃあ聞くけどさ、今って何年?」
我ながら変な質問だなあと思ってアーサーに問い掛ける。俺の質問に益々訳が分からない、と言った表情をされたけど、アーサーは素直に答えてくれた。
呟かれたのは1588年の七月。ご丁寧に日付まで告げてくれたアーサーに俺はぷす、と頬に溜めていた空気を吐き出した。
ああ何と言う事だろう。1588年?今は十六世紀って事かい?俺が居た場所は二十一世紀なんだぞ。一体何世紀前の話をしているんだこの眉毛は。
嘘なんじゃないかと目を細めても、彼は何を当たり前の事を、と言う様に逆に睨み返してくる始末。oh、ジーザス!俺はどうしちゃったんだい!もしかしてタイムスリップでもしたのかい?そんなまさか!
それこそ有り得ない。なんだって今日、この日、この年なんだい?むしろどうやってこの場所に来たんだい!俺はただいつも通り寝ていた筈なのに!
原因が分からないから頭が余計にこんがらがってくる。ぐいっとコーヒーを煽ると、独特の苦みが口の中に広がっていった。
「…じゃあやっぱり夢?でも夢にしてはリアル過ぎるし…かと言って嘘じゃあないみたいだし…」
「おい、答えたんだから次は俺の質問に答えろ」
「えー…もうちょっと待ってよ。今状況を整理してるんだから」
「そんなもん待てるか馬鹿!」
あ、そのフレーズがちょっと懐かしく感じる。昨日聞いたばかりなのにおかしいなあ。
何でだろう、また胸の奥から込み上がってくる感覚がする。変だな、どうしちゃったんだろ、俺。
このアーサーが俺の事を知らないからかな。ここには昨日までの、いつものアーサーが居ないからかな。俺の事を照れながらも好きだって言ってくれる彼が、居ないから?
どうしよう、ここが本当に十六世紀の、過去の場所だとしたら。俺は、俺の知っているアーサーに会えないのかい?兵器と言っても過言じゃない真っ黒のスコーンを毎日のように作ってくれる彼に、もう会えないのかい?
…そんな、そんな事あってたまるか。彼は俺の恋人なんだぞ。大好きな人なんだぞ?もう会えないなんて思っちゃいけない。
帰るんだ。帰らなきゃ。二十一世紀の俺が居た場所に。帰って早くアーサーに会わないと。うん、ちょっと気持ちが上昇してきた。
でもどうやって帰ったら良いんだろう。どうやってこの場所に来たのかすら分からない状況なのに、現代に帰る事なんて出来るのかな?
うーん、と頭を捻るけど、答えなんか見つかる筈がない。俺はこんな、不思議現象に詳しくないから原因を探そうとしても分かる訳なかった。
「うん、でも何となく自分が置かれた状況が分かってきたんだぞ」
「…」
「どうかしたのかい?そんな怖い顔しないでくれよー」
「してねえよ馬鹿!」
「ええー、してるじゃないかー」
ぐいっと彼に近付いて、鼻の先にカップを押し付けようとする。その瞬間に、アーサーは後退りして避けたので俺はもう一度ぷす、と頬を膨らませた。
眉毛は歪んだまま、ちょっと驚いた様子でそんな避け方をしたアーサーは、直ぐにぴしりと表情を元に戻して難しい顔になる。
やっぱり表情は俺が知ってるアーサーと何ら変わりはない。今の方がちょっとやさぐれてる感じはするけど、元が同じ人なんだから、昔も今も仕草は全く一緒だった。
「いいから、今度こそ話聞いとけよ。じゃないとぶった斬る」
「分かったよ。もー仕方ないなあ」
「…はあ。お前自分の立場分かってねえだろ…」
「まあね!」
だって俺はヒーローなんだぞ!どんな逆境でも何とかしなきゃいけないのがヒーローってものなのさ!だから仮に不審者のレッテルを君に貼られていたとしても俺はいつも通りに進行させてもらうんだぞ!
DDDDと笑ってぱちりと彼に向ってウィンクをする。今はどうやって元の時代に帰れるか悩まなくちゃいけないんだから、さっきの涙は綺麗さっぱり忘れるんだぞ!
アーサーはそんな俺の言葉に盛大な溜め息を吐いていたけれど、何を言っても無駄だと早々に悟ったのか、言い返してくる事はしてこなかった。
それよりも俺がどうやってここに来たのか、どうして自分の事を知っているのかと言う疑問の方が勝っていたんだろう。呟かれたのは俺に対する怒りじゃなくて質問だった。
「まずお前、名前は?」
「…アルフレッド」
「アルフレッドか。どっから来た?」
「えー…自分の部屋?」
「俺に聞くなよ。質問を変えるか…どうやってここに来た。魔法か?」
さて、俺はなんて答えれば良いんだろうね。そもそも今の問い掛けは突っ込んでいいのかい?魔法ってなんだよ魔法って。
君は俺が魔法でこんな所に来たと思っているのかい?冗談はやめてくれよ、俺はオカルトなんか信じないんだぞ。
唯でさえ目に見えない妖精さん達との会話を聞こえないふりをして無視してあげてるのに、自分からそんなファンタジーな物を持ち出してくるのは止めてくれよ。
ああ、でもこんな事言っても意味無いんだっけ。このアーサーは俺の事を知らないから…あああ、もうややこしい。説明が面倒なんだぞ。
うーん、と悩んだまま、俺が答えを出さないでいると、アーサーはまた機嫌を悪くしたのか眉間に皺を一つ増やしていた。折角の綺麗な顔立ちが台無しなんだぞ。眉毛は元から台無しだけどさ。
でも答えないままだとかえって怪しまれるし、もし彼の言うファンタジーでオカルトな怪しい魔法でここに来たのだとしたら(そんな事あって欲しくないけど)、アーサーならなんとか対処法を知っているかもしれない。一応専門分野っぽいし、俺が居た時代でそんな事をするのはアーサー本人しか居ないし。
それならちゃんと教えておいた方が良いのかなあ。うん、もうどうにでもなればいいや!
…いや本当はあんまり良くないんだけどね。でも俺一人の考えじゃ状況が突拍子の無い事過ぎてどうすればいいのかさっぱり分からないんだからしょうがないじゃないか!俺はこう言う現実味のない物はフィクションの中でしか経験無いんだからさ!
「答えられねえのか」
「いや、答えるよ。けど信じるか信じないかは君次第だね」
「…本当に面白え奴だな、お前」
「そうかい?君の眉毛の方が面白いけどね!」
アーサーの眉毛を人差し指で突いてそう笑うと、やっぱり彼は後退りして俺の手から逃げようとする。
けど二回も逃げられる程俺は甘くないんだぞ!アーサーの腕を引っ掴んで手を背中に回し、がっちりとホールドして動けなくさせる。
咄嗟の事で反応しきれていなかったアーサーは俺の顔が間近にある事に目を見開いて呆けているみたいだった。
でも俺はそんなこと気にはしないんだぞ。すりすりと親指で彼の眉毛に触れて、緩く擦ってあげると、睫毛を震わせてアーサーはぎゅっと目を瞑った。
ああ、やっぱり元が一緒だからこんな恰好をしてても可愛いと思う。切先を向けられた時は格好良いかなって思ったのに、今じゃあ唇を噛んで唸りそうな勢いだ。いつもみたいにぎぎぎってさ。
こんなに可愛い反応を返されてしまっては、俺の理性が正直持たないんだぞ?むしろ崩壊の一歩を今進み出した気がする。
このアーサーは俺の事を全く知らないって言うのに、いきなり押し倒しでもしたらそれこそ叩き斬られるじゃないか。駄目駄目、耐えるんだ、俺の理性。
既にハグ状態なのは敢えて無視しておくんだぞ。じゃないと本気で致してしまいそうだ、色んな意味で。
ああもう、この人もアーサーなのに気軽にいちゃいちゃ出来ないってあんまりじゃないかい!ジーザス、元の時代に帰れるまで俺の理性って大丈夫かなあ!現時点でも危ないのに帰れる見込みがないなんてお先真っ暗じゃないか!これってとってもやばいんじゃないかい!
もしかしたら帰る方法をどうにかする前にこっちの問題をどうにかしないといけな―。
「いい加減離れろ変態ばかああ!」
「はぎゅっ」
うん、頑張れ俺。鈍い音が身体中に響いたのはきっと気の所為だ。
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[2010.02.20]