夜明けの海
周りが五月蠅くて、心地良い眠りに浸っていた俺は眉を歪めて寝返りを打った。
もう、朝から一体なんなんだい?また近所の猫がパンを食い逃げした?それとも庭の木がバーベキューで燃えたのかい?
わんわんと耳から入ってくる色んな声に頭を振って起きたくない、と身体を縮まらせる。
今日はいつにも増して声が五月蠅い。昨日あんな事があったばかりなのに。今日はずっと寝ていたい気分だったのに。
それなのに声はどんどん大きくなっていって、間近で聞こえている様な気さえしてくる。あーうるさい、うるさいんだぞー。
こんなに五月蠅いって事は余程大変な出来事が起きたのかな。どんなのだろう?火事?事故?サイレンは聞こえないからそれはないか。
じゃあなんだってこんなに五月蠅いんだ。いい加減にしてくれよ、俺は眠たいのにさあ。
聞こえる声が頭の中をぐるぐる回って俺の眠りを妨げる。何故、誰、どうして。疑問ばかりの声に少し違和感を持ったけど、そんな事どうでも良い。
無理矢理起こされるのは誰だって嫌なんだから、と被っていた筈の布団を手繰り寄せようと手を動かす。何処だ、ふかふかのシーツ。
口をもにゅもにゅさせてお目当ての物を手探りで見つけようとするけど、見つからない。そもそも俺の下にある筈のシーツも無い。ベッドも普段と違って随分硬い。
誰だい?俺をベッドから落っことした奴は。床もきしきし言って同情してくれてるじゃないか。あ、違うか。その前に俺の部屋の床って絨毯敷いてるし。フローリングだけどちょっとやそこらの衝撃でこんな音とか鳴らないし。
…あれ?じゃあ、今俺が寝てる場所って?はた、と気付いて止まる事の無い声に漸く耳を傾ける。どうして、こいつは、何故、誰だ。
疑問形ばかりの言葉の羅列。変だ、なんか変だ。いつもと状況が違う。おかしいぞ、なんで誰かに向かって―。
「静かにしろ!」
ガン、と大きな音と共に床から振動が伝わってきて、俺はぴゃっと肩を震わせた。
眠たい頭で考えていた事はその音で一掃されてしまい、目もぱちり覚めてしまう。
怒号が辺りに響き渡って、俺は眠りに浸っていた身体をばっと起こした。びっくりしたってもんじゃあない。危うく心臓が止まる所だった!
どくどくと早鐘を打つ胸に手を当てて、落ち着かせるように深呼吸をする。きょろきょろと視線を動かすと、そこでやっと周りを見渡す事が出来た。
出来た…のだが、見慣れない風景に頭が付いていかない。え、あれ?ここ、何処だい?
周りは菊の家でよく見る漫画のキャラクターの服に似ている服(コスプレって奴かい?)を着た人達で囲まれていて、物珍しそうにこちらをじっと見ていた。
その人達の奥に見えるのはダークブラウンの木造と、広い青。上を見上げると、白い布と縄が木の柱によって支えられていて、まるでここが船上のように思えた。
…否、そう、なんだろう。じっとしていても揺れる身体は床から伝わってくる振動の所為だ。きし、きし、と軋む音もそこから聞こえてくるし。
俺を取り囲んでいる人達の出で立ちは正に航海士と呼ぶに相応しい(…いやむしろ海賊の方が合ってるかな?)服装だしね。一昔前の軽装で、腰には湾曲型の剣がぶら下がっている。
他にも、一面に広がっている青はどう見ても海だし、上は海と同じくらい快晴な青空だし。俺の部屋は吹き抜けになんてなってないんだぞ。
「…じゃあここは、何処なんだい…?」
思わず口に出てしまうのは仕方のない事だろう。本当に分からないのだから。俺はただ普通に自室で寝ていただけなのに、起きたら全く身に覚えのない場所に居るなんて、どう言う事だい?
まさかトニーが俺をキャトったりしたのかな?いやでもそれだったら近くにトニーが居る筈だ。視線を巡らせてもあの特徴的な彼の姿は何処にも見当たらない。
じゃあ昨日、俺が怒ったからアーサーが魔法で俺を知らない場所にテレポートさせたとか?それこそ有り得ないじゃないか。彼にそんな力があったらもっと別の場面で使って欲しいよ、会議に遅刻しないようにとかさ。
浮かぶ可能性はこの二つだけど、どちらも可能性としては低いし、そもそも何故今日なのか、が疑問に残る。そりゃあいつでも良いとは思うけどさ、なんだって今日なんだい?何かサプライズする程の出来事ってあったっけ?
むぐぐ、と眉間に皺を寄せても、記憶の中に思い当たる節は見つからなかった。あと考えられる可能性は一つ。俺は誰かに連れ去られて、この場所に放置された、だ。
国である俺を拉致して何か表の世界では出来ないやばい事をしちゃう、なんて事は一番現実的で可能性が高い案だ。
でも可能性は高いとしてもこれが正解と言う訳ではない。まず第一に俺を拉致した張本人が居ない。騒いでいるこの人達の言葉を掻い摘んでも、この人達が俺を拉致した訳ではなさそうだし、彼等以外にここに居るのは俺だけだし。
それに俺の部屋はそう簡単に侵入できるような軟な防犯システムは使っちゃいない。見た目は何処にでもあるアパートだけど、設備は良いんだぞ!
だからこの可能性も不正解になるから…。じゃあ、正解はどれなんだって話だ。自分の事なのにさっぱり分からないんだぞ。
お手上げ状態になってしまって、俺は盛大に溜め息を吐いた。ここが何処なのかは分からないけれど、俺、自分の家に帰れるのかなあ。
「おい、お前」
「んー、なんだい、今ちょっと現実逃避を…」
むしろ夢なんじゃないか、と頬を抓っていると(痛いし、夢じゃない…)、先程の怒号を発した者が床を鳴らしてこちらに向かってくる。
一目で周りの人達とは身分が違うと分かる豪華で重たそうな外套は、細かい刺繍が施されて綺麗だった。
どうやらこの人物が船長らしい。すっと周りの人達は彼を通すように道を開け、踵が高い靴を鳴らして俺の前へ立ち塞がった。
そこで漸く俺は顔を上げ、彼の顔を見る事が出来た。色素が薄い金髪は潮風に晒されて痛んでいて、その頭上には金の縁取りがされた大きな帽子が乗っかっていた。
見下ろす翡翠の様な瞳は冷たく鋭い。口元は吊り上がっているのに、目が笑ってない。特徴的な眉毛はぶっとくて、まるでアーサーみたいだった。
…いや、「彼」はアーサーだった。何処からどう見ても、こんな特徴的な眉毛、顔、彼以外あり得ない。
アーサーの兄達も、彼の弟であるらしいピーターも眉毛は兄弟揃って太い六弦眉だったけれど(まるで呪いみたいだ!彼から独立してなかったら俺もあの眉毛になってたのかなあ…)、俺は直感的に彼がアーサーであると確信したんだ。長い事一緒に居たんだから、間違いない。
けど、それならこの眼差しは、まるで弱者を見下ろす強者の視線は、変だ。いつもなら怒っていたとしてもその目には俺が弟であった時の想いが混ざっていて、こんなに冷たい視線なんか寄越さない。
なのに今は、知らない奴に向ける視線で俺を見ている。敵に向ける眼差しで、殺気も薄っすらと感じさせて。これは一体どう言う事だい?
「お前が誰かは知らねえが、一体何処から現れた?何者だ、名乗れ」
「それはこっちが聞きたいよ!不思議体験は好きだけどこんな最悪な体験は勘弁してほしいんだぞ!」
「いいから質問に答えろ、殺されたいのか?」
「…仕方ないなあ。その代わり俺の質問にも答えてくれよ」
「はっ、生意気なガキだな」
鼻で笑ったアーサーは、俺に目線を合わせるようにしゃがみ込む。によによ笑う表情はいつもと変わらない、何か企んでいる顔だった。
よくフランシスに向けているその表情をこんなに近くで、しかも真正面から見るのは珍しい。俺に向けて笑う時はいつもひっそりと隠れて笑うくせに、今日のアーサーは変だなあ。
服だって昔の元ヤンと呼ばれてた時代の服で、今じゃあ誰も着ていないような古い物だし。イメージチェンジで中世の頃に逆戻りしてみたのかい?まっさかー。戻っても今よりマイナスのイメージしか無いじゃないか。元ヤンだし。海賊だし。
そりゃあ、あの頃のアーサーは世界を牛耳る程の圧倒的な力を持っていたけどさ、今同じ事をやろうとしてもその圧倒的な力が無くなってるんだから見せかけにしかならないじゃないか。そんな事しても意味が無いんじゃないかい?
むしろアーサーはそんな、見せかけの力を振り翳すなんてしないと思うんだけどなあ。話術はあるんだから、昔の格好をしなくても今のままで十分やっていけてるじゃないか。なのになんで突然、そんな格好なんかするんだい?周りの人達って部下かなにか?エキストラも用意してるなんて力が入ってるんだなあ。あれ、じゃあこれって撮影とか演技なのかい?
「あ、それともお芝居?…なーんだ、だったらそう言ってくれればいいのに!カメラは何処だい?」
「…何言ってんだお前。さっきからぶつぶつうるせえぞ、今度喋ったら叩き斬るからな」
「えー、台本とかは?俺台詞とか分かんないんだけどさあ」
「…」
ぷす、と頬を膨らませてアーサーに悪態を吐く。台本は別に無くても構わないけどさ、やっぱり演技ってきっちりこなしたいじゃないか!だって俺はヒーローだからね!
それにしても寝ている俺をこんな場所に移動させるなんて、アーサーってば余程俺を驚かせたかったのかな?昨日のお詫びのつもり?それにしては変なお詫びの仕方だけど…まあこう言う撮影は嫌いじゃないから良いけどね!
内心可愛いなあとくすくす笑って目の前の彼に抱きついちゃおうかと思ってしまったけど、流石に部下の人達の前でそれをすることはしない。俺達の関係は秘密だからね。俺はばれても構わないんだけど、アーサーは周りの目を気にするタイプだからその辺厳しいんだよね。ばれたら「死にたい」とか言い出しそうだし。
ああもうほんとかっわいー。お詫びしてくれてるんだし、俺も謝らないといけないなあ。一方的に怒っちゃったの俺だしさ。
ごめんねって言って、誰も居ない場所でハグしてキスして、笑い合ってさ。それでいつもの俺達に元通り!うん、完璧!
だから彼に向って口を開ける。たった一つのワードを言葉にする、瞬間。
「喋んなって言っただろ」
「っ!?」
きらりと太陽の光で反射した何かが、俺の目に飛び込んできた。それが刀身だと思う前に、身体は動く。
反射神経が鈍くないとは言え、ほぼゼロ距離で繰り出された攻撃は目にも止まらない早さだった。
どすり、と刺さった剣の位置は俺の首の真横で、あと数ミリずれていたら俺も無傷と言う訳にはいかない場所だった。生身の人間だったら確実に息の根を止められていただろう。
髪の毛が数センチほど犠牲になりはしたけれど頸動脈をぶった切られるよりは十分マシだ。後者は痛いって言う程度で済まない傷だし。
思わず冷や汗が伝って、心臓が高鳴る。ぶわわわっとアーサーから出ている殺気は本気で俺を殺そうしているようだった。
なんでだろう、変だ。アーサーがこんなに俺に向かって怒るなんて。しかも俺はこんな事をしても死なないって分かってるのに、なんでそんな殺気とか出すんだろう。
単に俺を傷付ける為?いや、そんな事アーサーはしない。子供の時から可愛がってくれたのに、今更傷付けるなんて、彼には出来ない筈だ。根拠は無いけどさ。
変だ、この人はアーサーなのに、アーサーじゃない。まるで彼は俺の事を知らないみたいだ。記憶喪失?いや、部下の人達も俺を知らないみたいだし、それはないか。
じゃあ俺が変なのかな?でも俺はアーサーって言う人を知ってるし、彼がイギリスだと言う事も覚えてる。うん、間違いない。
なら、今のこの状況は、どう説明すれば良いんだい?彼は一体誰で、ここは何処なんだい?分からない、分からないんだぞ。
振り出しに戻ってしまった疑問がぐるぐると頭の中を駆け回る。あー、また現実逃避したくなってきた。でも一番ショックなのはアーサーが俺を殺そうとした事だ。殺気を向けられた事って、独立戦争以来じゃないのかい?久しぶりだね、殺気。でも二度と出会いたくなかったよ。彼のなら尚更ね。
鼻の奥がつんとしてきて唇をぎゅっと噛みしめる。あ、泣きそう。見っとも無い、俺はヒーローなんだぞ?ヒーローは泣いている人を助けるのが役目なのに、俺が泣いてどうするんだよ。
あーうー、おかしいなあ。こんな事で泣く筈なかったのに。なんで目が潤んでくるんだろう。引っ込め涙、アーサーの前で涙なんか見せたくないんだぞ。
「うー、あー。馬鹿、もうくたばれアーサー」
「…は?なんで、俺の名前」
「くたばれアーサー。でもその前に俺がくたばれー」
「はあ?なんなんだよお前…」
それは俺の方が聞きたいよ。ねえ、イギリス、アーサー。
とりあえずそんなに俺の顔見ないで欲しいな。余計に涙が出てきちゃうじゃないか。
■back ■home ■next
[2010.02.16]