夜明けの海


 思えばそれは、必然だったのかもしれない。

 いつものように明るい声で会議終了を叫んで各自解散するように伝える。
 ちらほらと席を立つ者達を横目で見ながら、俺はジャケットのポケットに入っている手のひらサイズの物を服の上から叩いた。
 正方形の形をしたその中身は、ショーケースに飾られていた小さな指輪。ベビーリングより少し大きめのそれは、なんでも小指に付ける指輪、ピンキーリングらしい。
 シンプルなデザインで、一目見たときから気になっていたそれを、数日前に思い切って買ってしまった。もちろん自分で付ける為じゃなくて、想い人にあげる為に。
 渡したらどんな顔するかなあ。やっぱりびっくりするかな?買う時にどうして小指に付けるのか店員に意味も聞いたけど、彼は知ってるのかなあ、その意味。
 こんな事初めてするから凄いどきどきしてる。早く渡したい、けどなんて言って渡せば良いかなあ。普通にあげるって?それじゃあムードの欠片も無いじゃないか。じゃあ結婚して下さい?いやいや、それは婚約指輪だし…。
 そんな事を悶々と考えて、今日まで渡せなかった黒塗りの箱。出した結論は、やっぱりそんな豪華な演出なんてせずに、さり気無く渡す、だった。
 ムードなんかを作るなんて俺には向いてないし、さり気無く渡した方がびっくりすると思うし。
 仕事よりも優先して考え出した結論にうんうんと頷いて、視線を動かす。大分人が減った会議室は、談笑している者も居てまだ賑やかだった。
 見慣れた顔に挨拶をしながら辺りをぐるりと見渡し、書類を纏めている彼を見つける。いつもの太い眉毛を見つけた瞬間、ぴょん、と頭の上のナンツケッツが跳ねた気がした。

「アーサー!」
「ん、ああ。どうした?」

 書類を捲って今日の会議のメモをしている彼に歩み寄ると、こちらに気付いたように彼も顔を上げる。
 ぱさぱさと揺れる金髪は俺よりも色素が若干薄くて赤みが薄い。太くて硬めの髪質、触り心地は正直あんまり良くない。けど、触ってると安心する。
 本人曰く、潮風に当たり続けたから仕方ないと言っていたけど、その後のケアを最近になるまでしてなかったらしいから、それが原因なのだと一概には言えなかった。
 俺は机に肘を乗せてしゃがみ込み、アーサーを見上げる体勢になる。アーサーは首を傾げて何だよ、と呟いたけど、然程俺の事は気にしていない様子だった。

「ねえ、君ってずっと手袋してるけど外さないのかい?」
「人前に出る時は大体外さねえけど、それ以外は外してるぞ。それがどうかしたのかよ」
「いや…俺と居る時もずっと外してないよなあと思って」

 それ、と指差したのは彼の手にきっちり嵌っている黒の手袋。柔らかい材質かと思えばそうじゃなくて、けど手の動きを邪魔しないように指にフィットしているそれは、いつもアーサーが愛用している物だ。
 俺も軍服を着ている時は手袋をしているけれど(もちろん今もしてる)、ラフな普段着になると窮屈なのが嫌で直ぐに外してしまっている。
 けれどアーサーは普段着でも軍服だとしても、いつもその手には今の様な黒か、白の手袋を嵌めていた。
 元々指が細いのがばれないように嵌めていると言っていたけれど、それは外交の面で自分が弱いと思われないようにする為の理由なんだろう。
 それなら、普段着で家に居る時は別に外しても良いんじゃないか、と思う筈だ。けど彼は俺が遊びに行っても手袋はしたまま。外した所なんて一度も見た事が無かった。
 いつから手袋を嵌めているのかはもう記憶が曖昧過ぎて分からないけど、少なくとも俺が彼から独立した後からずっとしていた筈だ。黒い手袋が俺に触れる事を拒絶しているみたいだったからよく覚えている。
 今となっては当たり前過ぎて気にも留めなかったが、改めて考えると結構不自然だよね。俺、彼の恋人になってから大分時間経ってるはずなんだけど、その関係になってから一度も彼の手に直で触れた事が無いなんて、軽いショックを覚えたんだぞ。
 頬を膨らませてぽこ、と頭から湯気を出すと、アーサーは太い眉毛を眉間に寄せて記憶を掘り起こすように天井を見上げた。

「そう、だっけか?まあ、ずっと付けてるからなあ」
「なんなら今外してよ。アーサーの手、見たいし」
「はあ?別に見てもなんもねえぞ」
「良いから良いからー」

 うーん、と唸っている彼の腕を掴んでDDDDと笑う。ちょっと強引過ぎたかなって思ったけど、アーサーは特に怒ったようでもなく、仕方ないな、と手に持っていた書類を机の上に戻した。
 袖と手袋の間からちらりと見える肌は色白で、日に当たっていないように透き通っている。普段から長袖を好んで着ているみたいだけど、もうちょっと日に当たった方が良いような位、アーサーの手は白かった。
 おかしいな、彼って結構庭いじりとかしてるのに。あー、そうか、肝心のお日様が出てないから焼けてないんだ、この人は。
 彼の家に遊びに行くと、大体天気は曇り空か雨で、カラッとした晴天なんて数える程しか見た事がない。晴れの日が物凄く珍しいほどだから、どれだけ天気がどんよりとしているか想像出来るだろう。
 そのどんより天気の原因は彼の暗い性格から来ているものなんだけど、今は関係無いのでその話は横に置いておく事にしよう。
 とにかく、その白い肌と黒い手袋の色合いが刺激的で、ちょっとばかしムラッとするのは彼には秘密なんだぞ。あ、これも関係無い話だった!

 手袋を外す動作一つにしても、自称紳士を名乗っているだけあって見ていて様になる。
 するりと外されて現れる角張った掌にこくん、と喉を鳴らすと、にやりと笑われた。うわあ、なんか悔しいんだぞ。だけどここでなにか言い返せば彼の思う壺だから、何とか歯を食いしばって怒りたい気持ちを抑える。
 ぶー、と頬を膨らまして外された手袋から視線を戻す。俺の指とは違って細くて直ぐに折れてしまいそうな彼の指は思った以上に綺麗で、まるできらきら光っているように見えた。
 …否、実際にある一部分だけ、光っていた。その事に一瞬思考が止まる。…え?なんで?なんで君が、それ、持ってるんだい?

「アーサー、それ、小指」
「ん、あー。ああ悪い、外し忘れてたか」
「…なんで、指輪」
「ああ、いつも付けてるんだよ。ずっと付けてるから外すのたまに忘れるんだよなあ、これ」

 そうやって翳されたのは、銀色の小さな指輪だった。
 シンプルな装飾が施されたそれは、俺にとって目新しい物のはずだった。けど、見れば見るほど頭の中で映像が浮かんでくる。ショーケースの中の、小さな指輪。黒塗りの箱の中の、ピンキーリング。
 …俺の服のポケットの中にある筈の指輪が、彼の手の中に既に存在していた。

「おいどうかしたのか?…あ、やっぱり貰いもん付けるのまずかったか…?」
「それ、誰から貰ったんだい?」
「…言ったら怒るか?」
「相手によってはね」
「…」

 手から外された指輪を見つめて、俺はアーサーに催促する。アーサーは俺の言葉に眉を顰めて口をもごもごさせていた。
 何か言いたいのは山々だけど、どう言えば良いのか分からない。そう言った表情をされて、胸の奥がもやもやし始める。なんで、そんなに悩むんだい。
 俺はただ誰が君に、俺と同じ指輪をあげたのかが知りたいだけなのに。そりゃあ、フランシスとかだって言われたら軽く殺っちゃうかもしれないけどさ。
 けどアーサー相手に怒る訳じゃないんだから、そこまで言い淀まなくてもいいんじゃないのかい?それともその指輪をあげた奴を庇っているのかい?それだったら余計に胸がもやもやするんだけど。
 一向に言葉を発しないアーサーに痺れを切らして、俺は彼の手から指輪をぱっと奪い取る。あ、と声が聞こえたけど、軽く無視してやった。

「…『I Love you』だってさ。ねえ、アーサー。俺って君の恋人だったよね?」
「あ、馬鹿、ここでその話すんなよ!声でかいだろ…っ」
「答えてよ、これ、誰から貰ったの?」

 慌てる彼の目を軽く睨む。最近は彼に対してこんな風に睨んだ事が無かったから、アーサーは肩を震わせて怯む。
 そしてまた数秒考えて、深い溜め息を吐いた。ばれてしまっては仕方ない、そんな溜め息に聞こえてまたもやもや。
 ぽこぽこと怒り叫ぶよりかは、静かに落ち着いた怒りが俺の身体を徐々に蝕んでいく。ああ嫌だなあ、彼に対してこんな風に怒りたくないのに。
 俺から視線を逸らしたアーサーは書類に目を配らせながら、そこで漸く口を開いた。

「忘れたんだよ、誰から貰ったかなんて。気付いたら付けてた物だし」
「でも君宛の愛の言葉だよ?」
「それは知ってる。けど忘れたのは本当だ。…だからその言葉は意味を成していない、それなら装飾として付ける位構わないかと思って」
「本当に?」

 俺の言葉に直ぐに頷くアーサーの目は真剣で、とても嘘を吐いているようには見えなかった。
 けど本当にプレゼントした相手を忘れるなんてあるのだろうか?幾らなんでも都合が良過ぎて不自然に感じてしまう。
 訝しげに眉間に皺を寄せて彼をじっと見つめるが、アーサーは俺を逆に睨み返してきた。結局先に折れたのは俺の方だった。
 分かってる、嘘を吐いてない事なんて最初から分かってた。でもあまりにも与えられた衝撃が大き過ぎて、どうして良いのか分からなかったんだ。
 彼が嵌めてた指輪は俺があげようとしてた指輪と同じもの。デザインも、彫られている文字も、全部一緒。
 違うのは彼の指輪が少し年季が入ったように細かい傷と反射する光が曇っている事、それだけ。あとは何一つ違わない。
 どうして、なんで?これは運命かなにかなのかい?それともアーサーに指輪を渡さない為の、神様のタチの悪い悪戯?ジーザス、冗談はやめてくれよ。
 無性に泣きたくなってくるじゃないか。なんだよ、俺が何か悪い事でもしたって言うのかい?俺はヒーローなんだからしている事は正義の筈なんだけど。

「アル…?大丈夫か?」
「…全然よくない。もういい、俺は帰るんだぞ」
「は?ちょっと、待て、まだ…!」

 話が終わって無い、と言いかけるアーサーの胸に奪い取った指輪を押し付けて、踵を返す。
 後ろで叫ぶ声が聞こえていたけど、俺は立ち止まらずに会議室を後にした。
 ああ、今日の出来事が全部夢だったらいいのに。なんて神様は酷いんだろう。
 ポケットの中の箱は、出せる筈がなかった。


 

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ウチのアルはとことん不憫と言うか可哀想。アルごめん…。

[2010.01.17]