夜明けの海


 指輪には一種のまじない要素が含まれていて、ファッションアイテムとしての役割と共に身につける者にとって様々な意味合いを持っているらしい。
 嵌める指でも沢山の意味があって、同じ指でも左右が違えば意味も変わる。
 女性の中で広まっているそんな話題は俺には全く興味が無かったんだけど、いざ自分の手の中に指輪が飛び込んできたら気になったんだ。
 ピンキーリングの意味、左右どちらに付けるとどんな意味を示すのかを。

 どっちに付けて欲しい、と指輪が入った箱を受け取って俺はアーサーに問い掛けた。
 彼はてっきり俺が付けたい手に嵌めるのかと思っていたらしく、問い掛けにきょとん、と首を傾げて逆に問い返してくる。どうして俺に、とあからさまに分かりやすい表情で聞き返す姿はまるで現代と変わらない。

「君が嵌めたい方に付けた方が意味があるからね」
「…そう言う事か」
「知ってるのかい?ピンキーリングの意味」

 妙に納得した様子でアーサーが指輪を見るから、てっきり指輪の事も知っているのかと思ったけど、アーサーは首を横に振って一言、知らないと答えた。
 まじないの類なのだから、そう言う分野に詳しい彼なら知ってそうだったんだけど…、いや、この場合は知らない方が好都合か。
 素直に疑問符を浮かべる彼に小さく笑ってもう一度どっちの指に付けるか問いかける。左右の小指の意味はまだ内緒だ。だって意味が分かってしまえば嵌めたい手も変わってしまうかもしれないだろう?
 アーサーは両手を交互に見やってちらりと俺に視線を向ける。悩んでいるのかと思って声を掛けようとしたら、その前に彼の掌が遮った。

「ならこっちだ」
「…ん、左手だね。君らしいな」
「何だよそれ」

 差し出された左手の小指に軽くキスを落とす。アーサーは俺の言葉が癪に障ったのか、口を結んで形をへの字に曲がらせていた。もう、別に悪い意味で言ったんじゃあないんだけどな。
 左手小指に嵌める指輪の意味は変化とチャンス。叶えたい願望がある時に指輪を嵌めれば効果があると言う、そんな意味合いを持っている。
 だからこの時代のアーサーにとってはぴったりの指だと思うんだけど。大英帝国の時代を築くには沢山の願いがある筈だろうしさ。
 箱から通常のサイズより一回り小さな指輪を取り出しながら店員に教えて貰った通りに説明していく。アーサーは黙って聞いていたけど、最後に相槌を打ってこくん、と小さく頷いた。
 添えるだけのゆるい支えで彼の左手を固定して、銀のリングを小指にそっと掛ける。まるで結婚式にある指輪交換みたいに儀式めいていて、心臓が次第に五月蠅くなっていくのが分かる。俺ってば柄にもなく緊張しているのかい?ヒーローの癖に情けない!
 こんな時はビシッと格好良い所を見せつけてやればいいのに、色んな所から汗が出てきそうだよ。だって、漸く、アーサーに指輪を渡せるんだ。
 時代は違えど指輪を嵌めると言う行為には変わりない。緊張しない方がおかしいって位、どきどきする。
 そろりと彼の小指に俺の指を重ねて行く。銀色に煌めく輪が指の付け根へと進んで行く。ただそれだけの行為なのに、コマ送りしているように流れる時間がゆっくりに思えてくる。

「…」

 きっと時間的には十秒も経っていないんだろう。だけど俺には何度も時計の針が回っている感覚に陥っていた。息さえも忘れてしまいそうな長くて短い時間。
 それでも最後には終わりがやってくる。ぴたり、と指の付け根にまで達した指輪はアーサーの手に馴染むようにきらりと光って、俺の手から離れていった。
 部屋に沈黙が降りてきて、互いが指輪を見つめたまま黙り込む。厚いドア越しの小波さえ聞こえてきそうな静寂だった。
 いつもはやかましい会議場に居る所為で、この静寂が物凄く珍しく思えてしまう。未来のアーサーと二人っきりの時だって、こんなに二人とも無言な時は多くないからやっぱり未来とは違うなって理解する。
 って言うか、アーサーはこの無音に慣れているかもしれないけど俺はそうじゃないんだよね!少しくらいの無音になら耐えられるんだけど、あんまり長いと声を発したくなってきてうずうずしてくるのだ。何となく気まずいって言うのもあるし、音が無いと寂しいからね!
 だから今もそろそろ我慢の限界だったりするのだが、流石にこんな所で大声を上げてしまえば雰囲気をぶち壊してしまう事間違いないだろう。…過去のアーサーにまで空気が読めない奴、なんて呼ばれでもしたら俺立ち直れなくなりそうだよ…。
 そんな事にならない為にもアーサーには早く喋って欲しいんだけどな、と落ち着かない様子でアーサーを見上げる。どんな事を思って君は、リングを見つめているのかな?
 洒落た台詞の一つでも耳元で零せれば良いんだろうけれど、生憎と俺にはフランシスみたいな口説き方とか出来ないし、いつもドストレートの愛か君みたいなツンデレの言葉しか吐けない。
 頭の中で色んな単語が行き来して、でも上手い具合に言葉が出てくる事は無かった。否、声すら、出なかった。

 アーサーが笑ってたんだ。俺の知らない表情で、柔らかくて、でも優しい顔で。可愛いんじゃない、何て言うか…そう、言葉にするとしたら「綺麗」が一番似合っていると思った。そんな、笑い顔。
 安心しきったように指輪を見て微笑む姿はまるで絵の様に綺麗で、それでいて少しだけ、儚かった。
 嬉しそうにも見えて、でもどこか切なさも感じられる。そんな色んな感情をぎゅっと詰め込んだ、それでいて複雑じゃない率直な笑顔。…見た事の無かった彼の表情そのものだった。
 途端にぎゅうっと胸が締めつけられた気分になって、俺は言葉を発する事が出来ないまま、アーサーに目を奪われる。ここが未来じゃ無くて本当に良かったかもしれない。
 こんな顔、未来のアーサーがしていたらとうの昔に俺の理性は宇宙の彼方にぶっ飛んでいただろう。見惚れる程度じゃ足りない、もう全部根こそぎ掻っ攫って行く位、俺の心はぽっかりと宙に浮いていた。ああ、ワシントンD.C.が独立しそうじゃないか。駄目だ、戻ってこい、俺の心。

「…アルフレッド?」
「ぴゃっ!…な、なんだい」
「いや…ずっと見てただろう、俺の顔。なんか付いてんのか?」
「あー、あー…違うから気にしなくていいんだぞ…」
「なんだよ、余計に気になるじゃねえか」

 じいっと覗きこもうとしてくるアーサーを拒んで俺は顔を背ける。こんな真っ赤な顔、恥ずかし過ぎてアーサーに見せたくなんか無いんだぞ!
 俺のささやかな拒絶にアーサーは機嫌を損ねてしまったようで、眉を歪めてぶつぶつと悪態を吐いていた。そして顔を背けた所為で正面を向いた頬をむに、と掴まれた。痛い。
 未来のアーサーもこんな事してなかったっけ?怒られた時にいつも頬を抓ってギーとか引っ張ってくるんだから、勘弁してほしいよ。俺の頬はお餅みたいに伸びないんだぞ!
 むにむにと効果音が付いてくる位、アーサーは俺の頬を摘んだり、伸ばそうとしてくる。思った傍から直ぐこれだ、と言わんばかりの行動に呆れさえ感じてくるよ。変な所でシンクロしちゃう君の行動に、俺はどうツッコミをすればいいんだい、アーサー。ねえ、そろそろ俺の気持ちもくみ取ってくれると有難いんだけど。
 すっと元の色に戻ってくる肌を確かめて、まだ頬を突っついている真っ白でかさかさな手を掴み取る。今まで為すがままだった俺が行き成り動いたからアーサーはびっくりしてたけど、そこは敢えてスルーしておく。
 彼の腕を引っ張って耳元に顔を寄せ、ふっと条件反射で息を吹きかけてみたら可愛くない奇声を上げられた。

「な、にすんだこの馬鹿!」
「むー…だってやってみたくなるじゃないか。なんとなく」

 HAHAHAと笑いながらアーサーの首に腕を回してぎゅうっと抱きつく。何回しても飽きないそれは多分、この時代ではこれで最後だと思う。
 だって俺が現代に帰るフラグは既に立っているから。きらりと光る新品の指輪はアーサーの手の中、もう俺にする事はなにもない。
 あとは幻覚と言う名の妖精さんに任せて、与えられた道筋を辿って行くだけだ。うーん、でもどうやって現代に戻るんだろう?やっぱり信じたくは無いけど魔法って奴なのかい?うわあ、なんか怖くなってきた。
 ちゃんと元の時代に帰らせてくれるんだろうか、なんて不安が頭を過ぎって変な顔になる。彼が言った通り、俺は妖精さんとの仲があまりよろしくないから、最悪のケースだって考えられる。
 アーサーが見てない所でまた変な時代にタイムスリップなんてしたら…、いやいや、これ以上考えるのは止めておこう。不安が大きくなればなる程、予感と言うものは当たってしまうのだから。
 帰るなら帰る、それで良いじゃないか。後先考えるより、今どう行動するかが重要なんだから!よし、ネガティブ思考はここでさよならだ!

「じゃあそろそろ帰ろうかな。俺はどうすればいいんだい?」
「結局教えないのかよ…くそ、気になるじゃねえか。…ピクシーはお前のタイミングで戻してやる、だとさ」
「大した事じゃないから気にしなくていいんだぞ!それじゃ、最後に一つだけ」

 名残惜しいけどハグした手を離して大きく伸びをする。アーサーはまた何も無い所に向かって微笑んでいたけど、何も見なかった事にしておいた。
 起きてからそれほど動かしていなかった身体はまだ少し動作が鈍かったけど、歩く分にはどうって事無いだろう。かつかつ、踵を鳴らして甲板に出るドアに手を掛ける。足を踏み出す毎に軋む床の音とも、これでお別れだ。
 くるりと上半身だけ振り返らせて、アーサーの方を向く。大分外が明るくなってきたから、その顔はテキサス越しによく見えた。

「今までありがとう。さよならは言わないから、また会おうね、未来のマイダーリン!」
「…ばぁか。俺も、お前に会える未来を待ってる、から」
「うん、それじゃあ、君が会いにきてくれるまでずっと待ってるよ!」

 最後になは☆なんて言いながら、俺は朝日が差し込むドアを開けた。もう、振り向きはしない。ただ前を向いて歩くだけ。
 さあ、帰ろうか。
 心の中で呟いて、目を閉じる。変な浮遊感と真っ白な光に支配されて、後ろからドアが閉まる音を聞いた。

+++

 バタン、と目に入ったドアが閉まった音を聞いて、俺はふと我に返った。
 そしてその途端に疑問が浮かぶ。何に対してと問われれば、答えは自分に対して、だろう。
 何故か閉まったドアの方向へと手を伸ばそうとしていた。理由は分からない。けど、なんとなく、伸ばそうと思ったのだ。
 自分の行動に疑問を抱くなんてどうかしている。疲れているのか、と身体を動かそうとしたら、妙に背中がだるかった。特に腰辺り。
 最近戦いばかりで少しばかり無茶はしているだろうけど、これ程の酷いだるさに思い当たる節は無い。何かしただろうか、なんて記憶を辿ろうとして、動きが止まる。

「…あ?」

 思い出せない。否、大半の記憶はもちろんあるのだが、どうして今、俺はこうしてベッドの上に座っているのかが、分からない。
 数分前の出来事がさっぱり記憶の中から消えていて、断片すらも全く思い出す事が出来なかった。
 だけど、おかしな事に思い出そうとすればする程、胸の奥がもやもやして心臓をぎゅっと握られるように苦しくなる。同時に、何かが溢れてくる。おかしい、変だ。
 自分の身体なのに、自分の事が理解出来ない。どうしてこんな気持ちになるのか分からない。疑問ばかりが浮かんでくる。
 ぼろりと目の端から零れ落ちた涙も俺の意思に反して次々浮かんで落ちていく。透明な雫を受け止めようとして掌で受け皿を作る。けれど、そこにさえも疑問点が浮かぶ。

 何故なら、全く記憶にない見慣れぬ指輪がそこには嵌っていたからだ。


 

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無理矢理終わらせた感。この話を書き始めた理由はアルの台詞だったり。

[2010.09.02]