夜明けの海
すん、と鼻を掠めた香りが俺の意識を現実へと引き戻す。浮かんだ感情は懐かしい、だった。
薄っすら目を開ければ、そこにはあの潮の香りも、不安定な床の軋みも、ウルトラマリンの海面さえ感じさせないアスファルトが音を立てずに広がっていた。
太陽の光を浴びてオレンジ色に染まるそれは慣れ親しんだ、現代の風景。
「…戻ってきた、のかな」
ぽそりと呟いた言葉は誰の耳にも届かない。周りには人の気配が無くて、けどそれほど遠くない場所からは大衆の声が響いている。
声の一つ一つを聞きとる事は出来ないけれど、少なからず中世の時代からは戻ってこれたんだと思う。
でも変だな。俺が過去に居た時と、時間が合ってない。向こうを出たのは夜明けの筈だったんだけど、今目の前に広がるこの空の色は、どう見ても夕焼けに近い。
そろそろ日が暮れても良い頃合いで、街灯の明かりもぽつぽつと点き始めて道を照らしているし。
おかしいな、これじゃあ俺が過去に行ってからどれだけ時間が経っているのかまるで分からないじゃないか。
頼みの綱の妖精さんは話し掛けても俺の耳には声すら届かないし、通訳のアーサーすら居ないんだからどうしようもない。
ここが何処で、いつの時代なのか分からない今、下手に移動でもしたら俺は元の所に帰れる自信なんて無いんだぞ…。ああもう、誰でも良いから知ってる人居ないかな。話が分かる人で、説明が出来る人!
「出来ればアーサーが良いんだけ、わあっ!?」
「ってぇ、何処見てんだ馬鹿…あ?」
「あれ?…アーサー?」
そんな簡単に願いが叶う筈ないのに、どうしてこう、こんなにも偶然で運命的な出会いをしてしまうんだい、俺達って(もしかして俺がヒーローだからとか?わお、菊の家で言う主人公補正って奴だね!)。
ぶつかってきたのは見間違う事の無い六弦眉。ついさっきまで見ていた眉毛と全く一緒で、でもさっきとは眉の上がり具合が逆だった。眉尻に行くほどぶっとい眉毛は下がっていて、まるでマジックでハの字を書いたみたいだ。
過去ではこんな眉毛の形を見なかったから、凄く懐かしく感じる。やっぱり、元の時代に戻ってきたんだ、俺。
いつものアーサーはぺたぺたと俺の身体を確認するように頬とか腕とかを触って、最後にぼすん、とそのぼさぼさ頭を俺の身体に押し付けた。まさか彼から抱きついてくるとは思わなくて、俺はどうして良いのか分からないまま、ゆるりとアーサーの背中に手を伸ばす。
街中でハグするのは嫌だって言ったのは君なのに、どうしたんだい?幸い周りに人は居ないから変な目で見られる事は無いだろうけど、大の大人がそんなにぐしゃぐしゃに泣いちゃ、駄目じゃないか。
「アーサー、そんなに俺に会いたかった?」
「ば、ばか…馬鹿、お前今まで何処行ってたんだよ!朝から探してたのに、見つからなくて…っ」
「あー…ごめん。ちょっと閉じこもってたって言うか…」
「…もしかして昨日の、ことで怒って…」
「違うよ!それとはまた別のことだから…だからほら、泣き止んでよ、アーサー」
君が泣くと俺まで貰い泣きしちゃうじゃないか。ただでさえ過去で散々泣き腫らしたのにさ。これ以上君の前で泣きたくないんだぞ!
ぼろぼろと大粒の涙を流す彼の頬に軽くキスをして、指の腹で零れ落ちて行く雫を拭う。腕の拘束はまだ解けそうになくて、余程心配してくれてたんだなって思った。
しかし過去との時間差があるとは予想してたけど、まさか一日しか経っていないなんて思わなかった。過去では一週間くらい滞在していたって言うのに、なんて都合の良い魔法なんだ。もしかして会議が三日続くのを分かっていて仕掛けたのかい?まさか、ね。
それに何日も行方不明になれば多方面に迷惑が掛かってしまうから、逆に一日で済んだのが良かったかもしれない。一日なら親しい国以外、サボったと思われるだろうし(それはそれで俺の評判が落ちちゃうんだけどさ…)。
問題は俺の周りの国の反応だ。アーサーを見ていれば何となく分かるが、謝るだけじゃあ済まないかもなあ。国の皆は笑って流しそうだけど、上司には怒られる事間違いない。
連絡無しで会議を欠席したんだし、仕方ないか…。ああ、でも頭ごなしに怒ってくる上司の説教は嫌なんだぞ…。
頭に浮かんできた懐かしの上司の顔に渋面で唸り、どう言い訳しようか悩む。ああでもない、こうでもない、と眉間に皺を寄せていたら、行き成り顔面に何かの衝撃が飛んできた。
それがアーサーの手だと分かるまでに数秒、手の隙間から見えた真っ赤な顔に気付くまでにまた数秒掛かった。君って奴は、我に返るのが遅すぎなんだぞ(あとタイミングも微妙なんだぞ!)。
「う、ばか、見んな」
「今は見てなかったんだぞ。君がこんな事したから見るんじゃないか」
「それでも見んな!…うう、しにたい」
「もー、またそれかい」
恥ずかしいからって毎回死にたいなんて呟いていたら、命がいくつあっても足りないんだぞ?あと、その言葉は俺の心臓に悪いから止めて欲しいんだけどな。言ってもどうせ聞きやしないから言わないんだけど。
頭から湯気が出る位に顔を真っ赤にしたアーサーは自分の顔も、俺の顔も隠すように掌で覆い、ぶつぶつとネガティブな言葉ばかりを呟いている。指の隙間から丸見えなのに、いつも同じ事をするよね、君は。
耳まで真っ赤にしちゃってさ、可愛いなあ、もう。…まあ、そこが好きなんだけどね。
ふにゃりと笑いながらそんな事を考え、はた、と覆われる掌の違和感に気付く。あれ、そう言えばこの人、手袋付けてない。
触れているそれはいつもの布の感触じゃなくて、少しかさついて角張った細くて赤みがかった掌だった。そして小指には細く窪んだ跡が一つ。
「あれ、アーサー。指輪どうしたんだい?」
「え、あ…。その…お前に悪いと思って、外した」
「まさか、捨てちゃった?」
あからさまに肩をびくりと震わせた彼になるべく優しく問いかけると、アーサーは視線を彷徨わせて小さく、首を横に振った。
その後直ぐにばっと顔を上げて何かを言いたそうにするけれど、結局彼の口からは何も言葉は出て来なかった。
何となく言いたい事は分かってる。きっと、アーサーは謝りたいんだろう。誰かも分からない人からの指輪を捨てる事が出来なくて。彼の時間で言う昨日の俺があんなにも怒った物なんだから、当然と言えば当然だ。
でも今は違う。俺には誰が指輪を渡したのか分かっているし、怒っていた感情も綺麗さっぱり胸の内から消えてしまっているから。
だから、アーサーがまだ指輪を持っていてくれた事に、ほっとした。
「アーサー、そんなにびくびくしなくても俺は怒らないんだぞ」
「けど、だって…」
「もー君ってば何処まで卑屈になれば済むんだい!…俺だってあれからその指輪について色々考えたんだぞ?これを渡した人がどんな想いで君に愛を伝えたかったのか」
まあ、渡したのは俺なんだけどさ、と言う台詞は口に出さないまま、俺は言葉を続ける。
君が納得し易いように、尚且つ簡単で効果抜群な言葉を、君にあげようじゃないか!ねえアーサー、マイダーリン、赤面し過ぎてぶっ倒れないでくれよ?
「それを君が忘れていたとしても、思いだしたとしても、もうとやかくは言わない。だってさ、俺が君の事を好きなのに変わりはないからね!」
「…―っ!?お、おま、何いきなり、…〜っばか!」
「いたっ!叩く事無いじゃないか!」
「うるせぇ馬鹿!ばかばか、ばか!くたばれ!」
「君の隣でならいくらでもくたばってあげるよ!でも、今はまだ君といちゃいちゃしてたいんだぞー」
「へ、変な事言うな馬鹿ぁ!」
HAHAHA、満更でも無い顔して怒ってても説得力無いんだぞ!そんな顔してたらこっちまでにやけてくるじゃないか、もう頬も緩みっぱなしだけどさ!
俺がそう笑っている間も規制音が鳴り響く位暴言を吐きまくったアーサーは肩で息をした後、ぶわわっとまた顔を真っ赤にしてしまった。もう何回目だろう、この表情を見るのは。
幾度となく見てきたのに全く飽きやしない。それ以上にもっと、もっと見たいと思ってしまう。…ずっと頭に残ってて離れない位、どうやら俺は君の事が愛しいみたいだ。
こんなにヒーローに愛されてるのにアーサーってば気付かないのかい?いや、気付いてるんだろう、君は。ただその性格の所為で認めたくないんだろう?
諦めちゃえばいいのに、意地っ張りで強情で、でも俺の態度一つ一つに怯えて、泣いて、笑って。様々な表情を見せてくれる君が好きで好きでたまらないんだよ。この気持ち、君にもいっぱい分けてあげたいな!
かさついて今にも端が切れてしまいそうな彼の口唇に同じものを重ねて小さくリップ音を響かせる。軽くそうしただけなのに、それだけで胸の内がふわふわと心地良くなっていく。
変わらないキスの味はとろり、と脳を刺激して欲を引きずり出してくる。もっと欲しい、もっと触れたい。もこもこ、むらむら、感情が溢れてくる。駄目だ、ソフトキスだけで終わらせる筈だったのに。
「…アル?っ、ん!…んぅ」
「…、うー、駄目だ。止まりそうにないんだぞ」
「んんっ…!っぷぁ、ちょ…っと、待っ、ここ外だぞ!?」
「今更なに言ってるんだい、アーサー」
そんな事、百も承知だよ!けど、止まりそうにないから大人しく流されちゃって欲しいんだぞ!もちろん、反対意見は聞かないからね!
+++
すっかり真っ暗になってしまった夜空は雲ひとつない快晴で、間接照明しかない部屋の中では星がきらきら光って見えた。
窓際に腰掛けてぼんやりと明滅するそれを見つめていると、部屋の奥から声が響く。ガラス越しに金髪が揺れて、タオル片手にアーサーがこっちを見ていた。
何しているんだ、と話しかけてくる彼に軽く首を振って、顎をついていた両手をぱっと広げさせる。ハグの合図であるそれに大人しく従ったアーサーは湿った髪もそのままにして俺に抱きついた。
真横からしてくるシャンプーの仄かな香りはいつもとちょっと違う。ホテルの添え付けを使っているのだから当たり前なんだけど、やっぱり俺はいつもの香りの方が好きだなあ。
すりすりと頬を擦り寄せて僅かに喉を鳴らす。風呂上がりの火照った身体が心地良い。まるで俺達の身体が一緒になってくっついたみたいだ(さっきまでその言葉通りの状態だったけど)。
「…どうかしたか?」
「ううん、何でもないんだぞ。それより、アーサー、指輪」
「…ああ、ちょっと待ってろ」
つい数十分前の事を思い起してしまっていたなんて言ったら確実に怒られそうだから、敢えて言わない。
再び部屋の奥に消えて行ったアーサーの背中を目で追いかける。少しの間それは途切れてしまうけれど、アーサーは数分もしない内に姿を現し、俺の元に駆け寄ってきた。
両手を握りしめて差し出されたのは、あの指輪だ。過去で彼に渡した時より年季の入った、少しくぐもっているそれは俺が買った指輪なのにやっぱり何処か別の物に見えてきてしまう。あっと言う間に様変わりしてしまったから、きっと実感が無いんだろうな。
けど、これは正真正銘、俺が渡した指輪だ。それは紛れもない事実であり、これからも変わる事は無い。
ころりと小さな指輪を手の中で転がして傍に座ったアーサーと向かい合う。本当に良いのかい、と遠慮がちに聞いてみたら、彼は何も言わずに掌を差し出してきた。早くしろって事かい、ダーリン。…OK、そこまで言うのなら俺も腹を括るんだぞ。
初めての時よりかは緊張していない自分に心の中でエールを送り、出された手を受け取る。口唇を寄せた小指は傷さえない、綺麗でまっさらなものだった。
その小指に軽くキスを落とし、ゆっくりと指輪を通していく。指の付け根まで持って行くと、そこで指輪はぴたりと嵌ってもう抜け落ちたりはしなかった。
「これで良いのかい?別に逆に付けなくても、俺は構わないのに」
「いや、これが良いんだ…。お前に嵌めて貰うなら、跡が無い方がいい」
「ふーん?…まあ君が良いならいいんだけど。それに、今なら右手の方が意味も良いかもね」
「意味?なんだそれ」
「聞きたいかい?…うん、じゃあアーサーには特別に教えてあげるんだぞ!」
こっそりと二人きりなのに耳元で内緒話をするみたいに俺は耳打ちをする。誰も聞いていないだろうけど、もしかしたら彼の言う妖精さんが近くに居るかもしれないだろう?
聞かれちゃまずい訳じゃあないけど、こればっかりは二人っきりの秘密にしたい訳で…うん、やっぱり誰かに聞かせる訳にはいかないんだぞ!
ぽそりと言い終わってアーサーから離れると、彼は口を開閉させながら呆気に取られていた。明かりに照らされていても分かる位、その頬は赤い。
予想通りの反応は予想していても嬉しかった。心の奥からじんわりとあったかくなって飢えた気持ちを一瞬で満たしてくれる。ああ、もう、すっごい今幸せだ。
「これからも大好きなんだぞ、アーサー」
「…俺もだ、ばかぁ」
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[2010.10.13]