夜明けの海
ざあっと血の気が引いた音を聞いたのは久しぶりだった。
確かめるようにアーサーにもう一度同じ事を聞いても、答えは一緒。今は朝の五時で、そろそろ夜明けの時間だと言う。
思わず指で昼間から何時間経ったのか計算するけれど両手の指じゃあ収まらない数に達した所で、数えるのを止めた。
「…俺達何時間やってたんだい…」
「さあな。俺も目が覚めたのは一時間程前だし、その前の記憶は日が暮れる辺りしか残ってねえ」
テキサスを掛け直した後に大人しく俺に着替えを手伝わせてくれたアーサーがそう言って、ベッドの上で足を動かす。
するするとシーツの上で動く白い肌は俺の目には毒にしかならない。危うくそっちに行きそうになった意識をボタンの方に向けて第四ボタンを付けると、上からぷすりと笑い声が聞こえた。
あ、もしかしてわざと動かしたのかい?本当に君って人はエロくて変態だな!煽られる俺が言えたものじゃないけど!
きゅっと音を立てて一つ上のボタンを留める。上昇していく腕と一緒に、少しだけアーサーの顎も上を向く。
その際に見えた白くて細い首にぽつぽつと浮かぶ赤い箇所が情事の後だと思い知らされてちょっと恥ずかしかった。どれだけがっついたんだろう、俺。
いつもはこんなにも沢山跡を残す事なんてしないのに。ああ、もしかしてアーサーが嫌がるから無意識の内に自制してたのかな?それが爆発してこんなに印を付けちゃったとか?うわあ、これじゃあ独占欲強いんだって事が丸分かりじゃないか。
悶々と無意識の内にやってしまった事を後悔しつつ早々に目の毒になりそうな彼の身体を布で隠していく。もー、首筋もエロいんだからそうやって簡単に晒さないでくれるかなあ!
「次はどれだい?チョーカー?」
「ん、あと手袋。そこに置いてるやつ」
「はいはい…って、え?…え、ええっ!?あれ!?」
「っなんだよ、耳元でうるせえ…」
「え、あ、ええ?あ、アーサー、手、指輪は!?え、あれ?なんでっ?」
ごく自然に言われた台詞に俺はぱちぱちと目を瞬かせる。そしてアーサーが顎で示した場所に視線を向けて一瞬目の前が真っ白になった気が、した。
あれ、何で、どう言う事だい?なんでこの人普通に手袋外してるんだ。なんで平然と素肌を晒しているんだ。
…なんで、指輪が、無いんだ。
混乱し過ぎて上手く言葉が出ない。出たとしてもああとか、ええとか、意味を成さない変な声だった。これは一体どう言う事なんだ。
確かに俺は未来のアーサーが小指に指輪を着けているのを見た筈だ。否、筈じゃない、きちんとこの目で見たんだ。銀色のシンプルなピンキーリング、この時代に居ても忘れる事は出来なかった、それ。
なのにこの時代の彼は、アーサーは指輪のゆの字すら感じられない手指で何の事だ、と言わんばかりに俺の言葉に首を傾げていた。
「指輪ってなんだよ」
「え、あ、えっと」
「そんなに俺がしない事が変なのか?なあ、おい」
ああ、そうだよね、普通なら当然そんな反応をするだろう。逆の立場になったら俺だって聞いた筈だ。それも好奇心たっぷりと、目を輝かせながら。
でも今は俺が答える側だから、目をきらきらさせる事なんて出来っこなかった。ジーザス、俺って墓穴を掘るのが得意なのかい?もうそろそろ自滅するのは嫌になってきたんだぞ。
ここに来た時だって自滅して泣いてしまったようなものだし、もうあんな思い出したくも無いエピソードを増やすのは勘弁してほしかったのに。
なんで今になって一番言っちゃいけなさそうな事実をばらしちゃうんだよ、過去の彼に。
これじゃあ聞き間違いって誤魔化しても絶対信用しないぞ。どうする、どうしよう、俺。バラしたら最後、未来に帰れないなんてルートは全力でお断りなんだぞ!
「なあ、お前がそこまで動揺するって事はそんなに重要な物なのか、指輪って」
「…言えない、忘れて」
「良いから言え。切欠になるかもしれないだろ」
「で、でもやなんだぞ!言って、未来が変わったら、俺…帰れないし…」
語尾がずるずると闇の中に消えていって、目線も下に落ちていく。見下ろした先にはぎゅっと握り締めた自分の拳があって、いつの間にかズボンには皺が寄ってしまっていた。
本当はこんな事言いたくない。けど未来が変わる事は俺にとって何よりも恐ろしく怖い事だ。バッドエンドには行きたくない、ちゃんと元の時代に戻って、彼に会いたい。
過去に来てから一度も口にした事が無かった切実な願望をこんなシーンで言いたくなんかなかった。けど言わざるを得なかった。正直、そろそろ吐き出さないと辛かったから。
でもよりにもよってこんな所でなんて。アーサーがどんな顔をしてるのか想像したくない。気まずい。
いっそこの場所から抜け出してしまいたくなる。この時代もそれなりに楽しむ事が出来たし、ヒーローっぽく活躍する事も出来た。
そりゃあ、弱音は一番最初に吐いてしまったけれど、この言葉は、この弱音は彼にとって一番言っちゃいけない弱音だった筈だ。あれだけ、受け入れてくれたのに。こんなにも触れる事を許してくれたのに。
その行為を全て突っ撥ねる言葉を、言ってしまった、のに。
「…んな暗い顔すんなよ。仮にそうなったとしても、お前が俺を一発ぶん殴って記憶ぶっ飛ばせばいいだけじゃねえか」
「え…?」
「それとも昨日みたいにぐっちゃぐちゃに犯してぶっ飛ばせてくれるか?俺は別に構わねえぞ」
「ぶっ…そ、それは駄目なんだぞ!」
とてつもない爆弾発言をされて思わずばっと顔を上げると、そこには目尻を吊り上げて苦笑する彼の姿があった。
まさかアーサーが笑ってるなんて思ってなかった俺はぽかんと口を開けて呆然とするしかなくて、どん底に落ちて行った考えも何処かへと吹っ飛んでいってしまう。
そしてまたぽつんと浮かぶのは疑問だ。なんで、どうして、ぐるぐるとその言葉だけが頭を駆け巡る。けれど俺の中から答えが出てくる事は無かった。
思考が底無し沼の深みに嵌っていってるみたいにどんどん沈んでいく。それを引っ張り出したのは他でもない、アーサーの声だった。
「お前は未来に帰りたいんだろ?なら可能性があるものは試さねえと、ずっと帰れないままだぞ」
「…なんで君はそんなに優しくしてくれるんだい…。俺が帰って欲しくないとか思わない?」
「っぷ…、なんだ、帰って欲しくないって言って欲しいのか?」
「わ、笑わないでくれよ…!だってセックスする事だって許してくれたし、恋人だって言っても嫌がらなかったし、ちょっと位はそう思ってくれてたら」
「そうだな、お前にはまだ帰って欲しくない」
俺の言葉を遮ってアーサーはきっぱりとそう言った。
あまりにも素直で率直な答えに、俺の言い掛けた言葉が彼方に消えていく。
いつもなら持ち前のツンツンデレデレでとっても回りくどい答えを返してくれるのに、今回に限ってこんなにも真っ直ぐな本音を突き付けられるなんて。
嬉しさが腹の底から湧き上がってくると同時にぎゅっと胸が締め付けられる。嬉しいけど、両手を広げて喜べない。
何故なら彼の言葉にはまだ続きがあるから。俺が過去に来てからずっと望んでいた事、願望、…この時代の彼から、離れること。
「だからこそ、お前は未来に帰らねえといけないだろ。未来で俺とお前が恋人のままで居るには、アル、お前はここに居ちゃいけない」
「…っう〜!そう、だけど!帰ったら君はまた一人ぼっちになる…それでも、いいのかい?」
「お前なあ…その鬱思考いい加減にしねえと叩き斬るぞ。あと勝手に一人になるとか決めつけんな、馬鹿!」
だってそうじゃないか、この時代の君はきっとまだ俺と出会ってない。だから他人を愛することも、愛されることも知らない。
ずっと一人で向けられる痛みに耐えてきて傷付いて、寄り掛かる肩だって君の隣には無いんだ。
それなのに俺が帰ったりしたら、誰がこの時代の君を支えてあげるんだい?誰も居ないじゃないか。そんな寂しい思いを、もう君にはさせたくないんだぞ。
今のアーサーには分からないかもしれないけど、これからずっと先の未来の話だけど、もうあんな、辛そうな顔をさせるなんてごめんだ。
じんわりと俺の意思に反して滲んでくる涙は重力に逆らう事無く下へ下へと落ちて行く。テキサスのレンズにもぽたりと落ちて自分が情けなく思えてきた。
また泣いてるんだ、俺。もう彼の前では泣きたくなかったのに、なんでこう簡単に泣いちゃうかなあ。普段の俺ならこんなの、どうってこと、ない、のに。
いつから涙腺緩くなったんだろう。アーサーの傍にずっと居たからかな?あの人が涙脆いからうつったのかもしれないなあ。
「…んでお前が泣くんだよ、馬鹿。別にお前が心配しなくても俺は一人でやっていける」
「で、も…」
「次口答えしたら殴るぞ」
「うー」
ぎゅっと拳を握り締めて睨んでくるアーサーに、俺はしょんぼりと頭を下げた。
危うく飛び出しそうになった言葉は寸での所で喉に引っ掛かって声になる事は無かったけど、もし声に出していたら俺の頬はもれなく真っ赤に膨れ上がっていた事だろう。それくらい、彼の目は本気だった。
ちょっと笑ったと思ったら直ぐに怒って、優しいと思ったら変な所でツンデレを発動させる。今も昔も変わってない。否、このアーサーは荒んでいてツンデレの部分が少ないか。
でもやっぱり彼は彼、アーサー=カークランドと言う人はこの世にたった一人、彼しかいないんだ。今も、昔も、もちろんこれからもずっとそうだろう。
過去の彼があるからこそ、未来の彼がある。…ずっと一人ぼっちで誰にも愛されずに生きてきた過去があるからこそ、俺と出会って、弟であった俺から独立されて、そんな俺と恋人になった未来があるんだ。
ああ、…そうだとしても、でも。
「分かってるんだろ、お前も。…だったら、未来の俺を愛してくれよ、アル」
「…アーサーの、ばか」
君が笑ってそんな事を言うから、俺が泣きたくなるんだ。
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[2010.07.08]