夜明けの海
ぼんやりとした視界の中で揺れたのは、淡い光に照らされた彼の髪だった。
「ん、んんー…」
「起きたか?」
「ん…お、はよ…今、何時?」
「五時過ぎ位だな」
心地良い眠りに浸っていた身体をゆらりと動かすと、頭に乗っかっていた重みがすっと消えてなくなる。
何だったんだろう、と寝惚けた頭で考えていたら腕を引いた彼の姿が見えて、反射的に頬が緩んだ。…撫でて、くれてたんだ。
小さい頃に撫でられて以来、何百年も子供扱いされるのが嫌で拒絶し続けてきたけれど、久しぶりに感じた微かな重さはそれほど悪くは無かった。むしろもっとして欲しいと思う程に。
懐かしい手付きは子供の時とは少し違って、触れるのも恐る恐ると言った感じが撫でられた髪からも伝わってきていた。
けれどゆっくりと髪を梳く動作はあの時と同じで、それが凄く懐かしくて、愛しい。
ああ、やっぱり俺は小さい頃からこの人が好きだったんだなって理解する。今も昔も、考える事は君の事ばかりだ。
掛けられたシーツがくしゃりと音を立てて俺の身体に纏わりついてくる。妙にその肌触りがするりとしていて、あれ、と頭に疑問符が浮かぶ。
まどろんでいた思考がそこで漸く動き始めた気がして、掌でぼやける視界を擦った。
次第にクリアになっていく世界にオレンジの光が灯っていた事を知り、光源の方へ視線を漂わせると、備え付けの棚の上に飾り気の無い質素なランプが置かれていた。
じじ、と火が燃える音と共に、僅かに蝋の匂いが鼻につく。アーサーが用意したものなんだろう、ぼうっとその光を見つめていたら、深紅の外套がばさり、と音を立てた。
「…アーサー?って、うわ、君なんて格好してるんだい」
「今から着替えるんだよ。お前こそそのままだと風邪引くぞ」
「え?…あ、うわ、なんで裸…」
あわわ、とずり落ち掛けたシーツを手繰り寄せて身体を覆い隠す。…ああ、そう言えば俺、この人と色々やってしまったんだっけ?
今更ながらに眠りこける前の出来事を思い出しそうになって眉間に皺を寄せる。えーっと、俺寝る前なにしてたんだっけ。そうそう、確か船内を歩いていたらクルーの人達に呼び止められて、面白い物があるからって何かの瓶を渡されて…。
それでえーっと、中身が何なのか聞く前にほぼ無理矢理飲まされて、中身が媚薬だったんだって知らされて、慌ててアーサーの部屋に飛び込んじゃって、それで…。えーっと、…うん。
俺が何も着てないと言う事はつまり、そう言う事なんだろう。理性が吹っ飛んでしまったと。致してしまったと、そう言う事になるんだろう。
…oh、これは現実かい?まさか本当に俺は過去の彼を襲ってしまったのかい?だとしたらこれは一大事ってものじゃないと思うんだけど。彼に叩き斬られてもおかしくない程の状況じゃないか。
それなのに寄りにも寄って、その事実を正直、俺はほとんど覚えていない。覚えているのは最初に服を脱がされて手淫されたくらい…かなあ。その時の事さえも大分うろ覚えではっきりとは思い出せなかった。
ただ挿れたのは俺の方で間違いないだろう。何故なら下腹部の方に違和感を感じないし。少しだけ腰が重いのは意識が飛ぶまで行為に耽ったからだと思うから、きっと俺の後ろの貞操は守られてる、はず。記憶が吹っ飛んでいる以上、断言出来ないのが悔しい。アーサーに聞くのもなんか怖いし。
聞いたら最後、ずっと傍に置いていた剣で斬られたら元も子もないし…。うわあ、余計に聞くのが怖くなった。
ふるりと肩がシーツ越しに揺れて、心なしかナンツケッツも元気無く垂れ下がった気がする。どんな言い訳をすれば許してくれるんだろうと眉間の皺を増やした所で、行き成り視界が黒に閉ざされた。
「わあっ?な、なんだい」
「お前の服だろ」
「あ…ほんとだ。…じゃなくて!アーサー!」
「あ?なんだよ」
掴んだ布は慣れ親しんだフライトジャケットで、胸の部分にある星のマークが見え隠れしていた。
次いでシャツ、軍服、下着とぽいぽい投げられる服をキャッチして、アーサーを呼びとめる。きょとり、と首を傾げる彼の姿は全裸に外套を引っ掛けただけのとてもラフな格好だった(本当になんて格好をしているんだこの人は!)。
いやいや、どうして君はそんなに平然としていられるんだい?普通驚くとか、ドン引きするとか、斬りつけてくるとかあるじゃないか!
それほどの事をしてしまったと思っていたんだけど、なんでこんなに自然に服とか寄越してくれるんだろう。おかしいな、確かに触る事は許してくれたけど、ここまで寛容になるなんて聞いてないんだぞ…。
だって未来で彼とセックスした時だって、翌日には死にたいと連呼されたのに(あの時は結構傷付いたんだぞ!)。
なのにどうしてこんなにもこの人は男同士でいちょいちょしたにもかかわらず顔色一つ変えないんだ。逆におかしく感じちゃうよ。…もしかして俺とした事に何も感じてないとか?ただの処理だったとか?
まっさかー、いくらなんでもこのアーサーはそんな理由じゃ触らせてくれない筈だ。何よりも侵略を嫌う時期である今なら、尚更。
じゃあ何でだろう。首を傾げながら投げられたシャツに腕を通すと、少しだけ潮の香りが鼻についた。
「ねえ、君は怒らないのかい?俺と…その、した事について」
「怒るならしねえだろ。それに、嫌なら迫られた時にぶった切ってる」
「…だよね。でもそこまで平然としてるとは思わなかったんだぞ」
「…。ばぁか」
「なっ、なんでその台詞が出てくるのさ、―っ?」
すっとボタンを留めていた腕を取られて、俺は導かれるようにアーサーの胸に手を寄せていた。
俺とは違う薄っぺらい胸板はお世辞にも綺麗とは言えない。細かな傷は沢山あるし、何かで斬られた跡だってランプの光によって色濃く浮かび上がっているし。
でもそれが彼の歩んできた歴史を物語っているんだ。…俺にはこんなに深い傷なんて無いからその痛みがどれほどのものなのか、分からないけど。
最近出来たであろう切り傷はまだ完全に治っていないらしく、その場所だけが他の傷より赤くて目を引く。じくじく脈打ちそうな位に膨らんだ場所に指先が触れると、アーサーの肩がぴくりと揺れ動いた。
痛い?と呟いたら、彼は首を横に振ってそれ程でもない、と目を伏せる。そしてまた腕を引かれて今度は胸の真ん中あたり、丁度心臓がある場所で止まる。
とくとく、規則正しく鳴る彼の心音が掌から伝わってくる。けど、心なしかいつもより音の感覚が…短いような気が、する?
「…これで平然としてるって言えるか?」
「…それならそうと口で言えば良いのに、ほんと君って人は分かり難いなあ」
「うるせー」
でもまあ、そう言う面倒臭い所もひっくるめて好きなんだけどね。
ランプの光で見え辛かった彼の頬にはしっかりと赤の色が差されていて、それがまた可愛いと思う。本当、こう言う所は今も昔も変わらないんだなあ。
へらりと頬を緩ませて苦笑すると、照れ隠しなのかベッドに落ちていた上着を押し付けられた。あーもう、直ぐ俺の顔を隠そうとする所も変わらない。どれだけ君は俺を煽れば気が済むんだい?
外套だけの格好でもムラムラしてるって言うのに、これ以上可愛い事をしないでほしいな!今度は本気で押し倒しちゃいそうになるじゃないか!耐えるけど!
「で、結局の所、未来じゃ俺とお前はどう言う関係なんだよ」
「え、分かんないのかい?カップルってやつだよ」
「男同士なのに、かよ」
「まあね」
駄目かい、と落ちていたネクタイを首に掛けながら問いかけると、返って来たのは是とも非とも取れる微妙な答えだった。セックスまでしちゃったのにそんなに認めたくないのか、この人は。
無意識の内に溜まっていた頬の空気をぷすり、と出し上着を羽織る。ボタンがきつい気がしたけど、ここは敢えて無視する事にしよう(俺は太ってなんかないんだぞ)。
そしてズボンのベルトをぎゅっと締めた所で掠れた声が「実感が湧かないんだよ」と呟いた。…ああ、まあそうだよね。この時代じゃあこの人は孤立してるし、それに同性愛だしね。直ぐに納得する方がどうかしてる(なら余計になんでこの人は俺とセックスしたんだろう、不思議だ)。
疑問が解決してもまた直ぐに新しい疑問がぽんぽん浮かんできて頭がパンクしそうだ。もう、どうしてこんなにアーサーって複雑で不思議で訳の分からない思考をしているんだい?もっと単純になればいいのに!ややこしいったらありゃしない!
それとも年を取ったら俺もこんな複雑な考えを持つようになるんだろうか?うわあ、今でも難しい事は嫌いなのにこれ以上理解不能にはなりたくないんだぞ…。
我ながらとても失礼な事を頭の中で浮かべながら着替えを済ませると、ゆっくりとシャツのボタンを留める彼が目に入った。
「手伝おうか?」
「…平気だ、自分で出来る」
「とか言って一つずれてるんだぞ、それ」
「…」
わあ、無言の威圧が凄いんだぞ。でも気付かない君も悪いんだぞ!
大人しく手伝わせてくれればいいのに、と腰を上げてアーサーの身体を引き寄せる。軽くそうしたつもりなのに、アーサーの身体は簡単にバランスを崩してしまって、俺の身体も一緒にベッドにダイブしてしまった。
そして直後に飛んでくる罵声、暴言を笑って誤魔化す。ちょっと涙目になっているのは抱き寄せた後で気が付いた。そうだ、腰、痛いんだっけ。
すりすりと労わるように腰を擦って俺の拘束から逃れようとしない彼を見上げる。平気かい、と聞いたらさっきとは逆に首を振られた。やっぱりそうだよね。
「ごめん、無理させっぱなしで」
「そうだな。けど元を辿れば俺の部下の所為だ、お前が謝る必要はねえだろ」
「うー、でも申し訳無いんだぞ…」
「だったら早く起こせ。そろそろ服着ねえと夜が明ける」
ぎゅっと音が付く位に特徴的な六弦眉を中心に寄らせてアーサーが俺の服を握りしめる。ちょ、ネクタイも一緒に引っ張らないでくれよ!首締まる!
って、あれ、おかしいな。俺が媚薬を飲んだのは昼間だったよね?なら今の時間は夕方の五時なんじゃないのかい?…、あれ?
「…ねえ、アーサー、今って午後五時…だよね?」
「ああ?何言ってんだ、午前に決まってんだろ。あれだけやってて数時間で終われるか、馬鹿」
「…oh」
ジーザス、嘘だと言ってくれよ。
あまりにも衝撃的すぎる事実が発覚した所為で、今までテキサスを掛けていなかった事すら忘れそうになったじゃないか。
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[2010.07.03]