プラトニック・ラブ
ずるりと腰を下ろしたのは、奇しくも今日、俺が問題発言してアーサーに引っ叩かれた現場だった。
そんな場所に居たくはないと思うけれど、再び立ち上がる気力なんかもうない。
菊に発見される前の塞ぎこんだ状態と同じように膝を曲げて、俺は腕の中に顔を埋めた。
大分持ち直していた関係が一瞬にして崩れてしまった。
縮まっていた距離が一瞬にして見えなくなるくらい、ずっと遠くに離れていってしまった。
全部自分の所為。自分があんな事を口走ってしまったから。
走馬灯のように今日一日の出来事がちらちらと脳裏に過ぎり、思い出す毎に鼻の奥がつん、としてくる。
じわりと視界が滲み、テキサスに雫が零れていく。縁を伝って重みで落ちる液体がスーツに黒い染みを作っていった。
「…っ」
もう何もかもぐちゃぐちゃだ。思考も、顔も、アーサーとの関係も。
何度嗚咽を繰り返してもそのぐちゃぐちゃになってしまったものは直る事はない。
自らが行動に出ない限り、修復など出来はしないだろう。
けれどその行動をする事が…出来なかった。会議室で怒られた時、踏ん張ってでも謝って土下座でもしていれば少しだけでも状況は変わっていたのかもしれない。
でも実際にはそれをする前に逃げてしまった。あの冷たく見下した瞳に耐える事が…出来なかった。
情けないと言われてしまえばそれまでだ。それは自分でも自覚してる。でもあまりにも投げかけられた言葉の冷たさに絶望してしまった。
全ては自分の所為、今更謝ってももう遅い。ああ、映画みたいにタイムスリップして過去に戻れればいいのに。
そうすれば二人きりの時でもあんな事を言わないようにしたのに、するのに。
でもそんな都合の良いアイテムなんて所詮は空想のものなんだ。現実にあったら人はどんな些細な事でも直ぐに巻き戻してやり直すんだろう。全て自分の良いように、何回も何回も。
それが出来ないのが人生と言うものだ。だから一瞬の駆け引きが楽しいのだ、と誰かが笑っていた。
…何が楽しいんだい?俺はそんな駆け引き、もうたくさんだよ!こんな事になってしまう駆け引きが楽しいなんて俺はこれっぽっちも楽しくないよ!
ずれたテキサスを外して握りしめると、ぎしり、とフレームが音を立てた。このまま握っていたらフレームが曲がって駄目になるかもしれない。でも今はそんな事、どうでもよかった。
「…アーサー…」
最後に見上げたあの表情が頭から離れない。
目を閉じても、開けていても浮かぶ彼の顔が俺の涙腺を刺激してぼたぼたとしょっぱい雫が零れ落ちる。
このまま身体中の水分が全て涙に変わってしまうくらいに泣き腫らしたい。そしてそのまま身体ごと蒸発してしまえばいい。
そうすればもう彼の事を考えずに済むのに、神様はそんな事を許してはくれない。
神様は酷いね、こんな俺をまだ生かそうとするのだから。今すぐに消えてしまいと思う程の絶望を感じている俺を、どうして君は生かすんだい?
これ以上辛い思いはもうしたくないよ。今も十分辛いけどさ、このままアーサーと離れ離れになるのならいっそ殺しておくれよ!
「ジーザス、…もうやだよ。全部悪いのは俺なんだからさ…許してくれよ、楽にさせてくれよ」
バキリ、と音を立ててテキサスのレンズにヒビが入る。そのまま握っていると形が段々と変わっていって、ぱたり、と涙ではない雫が指を伝って床に落ちた。
こんな事をしても少しの傷が出来るだけで死にはしない。それともこのレンズを喉に突き刺せばなんとかなるかな?やってみようかな?
手のひらに残る大きめのレンズの破片を握って角に親指を当ててみる。鋭利な切先は少し力を込めただけで親指にぷすり、と刺さって赤い雫が滑らかな曲線を描いて筋を作った。
ちくり、と痛みは走るけれど、アーサーに言われた言葉に比べればどうって事はない。蚊に刺された程度とは正にこの事だ。
もう少し深く抉ろうと親指に力を入れようとレンズを握りしめた所で…―不意に、俺の手とは違う腕が伸びてレンズを取り上げた。
あ、とした時にはもう遅く、レンズは床に投げ捨てられ、これまた俺の足とは別の足でそれを踏みつけられる。
パキパキと甲高い音を立てて粉々にされたレンズはもう、握れるほどの大きさをしていなかった。せっかく首に刺そうとしていたのに、粉々にされてはそれも出来ない。
如何にも不機嫌そうに眉を寄せ、俺は介入してきた第三者を見上げた。
「…フランシス」
「お前、あいつにボロクソ言われたからって自傷行為は止めろ」
「…君には関係無いだろ、放っておいてくれよ」
「って言われて放っておける程、お兄さんは馬鹿じゃないよ」
「…」
俺にも聞こえるくらいの盛大な溜め息を吐いたフランシスは役割を失ってしまったテキサスを俺の手から取り上げて、また溜め息を吐いた。
無残な姿になってしまったテキサスはもう元には戻らないだろう。欲しかったらまた新しいものを買えばいいだけの話だけど。
スペアの眼鏡は家にあるけれど、生憎と今回の会議には持ってきていない。
けれど、このまま裸眼で居る事にも別段不自由は無いのでフランシスからテキサスを取り返す事はしなかった。
フレーム越しに見ていたいつもの髭はテキサス無しで見ても嫌な雰囲気をしていた。甘ったるい香水の匂いがここまで漂ってきて顔を顰める。
「…その香水、嫌いなんだけど」
「ん?…ああ。これか。…まあ今の状況ならなぁ…我慢しろよ」
「…今の状況じゃなくても君がその香りを付けてる事が嫌なんだよ」
「あいつを思い出すから?」
にやにやと目を細めて口元に指を這わせるフランシスを睨みつけて、ぷいっと頭を振った。
それは肯定したと言う事になってしまうけれど、いま彼の話題をフランシスとするのは嫌だった。
だから早々に会話を打ち切って髭から逃れるように腰を上げる。
少しだけグラつく身体を壁を支えになんとか起こし、手を付いて立ち上がる。その際にもふわり、と甘い薔薇の香りが鼻を擽った。
「おいおい、何処行くんだよ」
「別に、君には関係無いだろ」
「だから…!そう言われて放っておける程俺は馬鹿じゃないっての!」
傷の手当てもしないといけないから、と傷付いた右手を指差されるが、軽く無視をして歩みを進めた。
何処に向かうのか、自分でもわからない。でも、フランシスと居るのは嫌だったので離れるように足を動かした。
ぶら下げられた右手からはまだ血が流れていて、床にぽたぽたと落ちていく。
まるでミステリー小説のように事件でも起きたかのような床に、フランシスは頭を抱えて何かを小声で言っていた。
その間にも俺は歩みを進めていて、壁伝いに進もうと最初の曲がり角を曲がろうとした所で、後ろからがしり、と腕を掴まれた。
「ああもう、お前等は本当に世話が焼けるな!」
「放してくれないかい」
「嫌に決まってるだろ、とりあえず医務室行くぞ」
「ちょ、っ…、いてっ」
踵を返して来た道を逆方向に歩くフランシスに腕を取られてそのまま無理矢理方向転換させられる。
急に進んだ所為か自分の足が絡まってこけそうになり、咄嗟に壁に手を付いた。
左手で支えれば痛みも何ともなかったはずなのに、そっちの腕はフランシスの手の中。
右手で付いた手のひらにちくり、と鈍い痛みが走って片目を瞑る。我慢出来るくらいの痛みだったけれど、傷口に刺激を与えてしまい、必要以上にびくりと肩が震えた。
「お前なぁ…後で掃除しろよ」
「やだよ、面倒臭い」
「と言って放置してると通報されるぞ、あれ」
ちらりと横目で手を付いた場所を見ると、乳白色の綺麗な壁にスタンプを押したように手のひらの形がくっきりと染みを作っていた。
真っ赤なそれは床にも染みを作っていて、どう見ても何かあった事を物語っている。
悪戯にしては度の過ぎたその光景に俺は鼻で笑って、ミステリーみたいで良いじゃないか、と口元を釣り上げた。
床の染みは現在進行形で作られているが、それもきっと直ぐに止まる事だろう。そうなると誰がこんな事をしたのか分からなくなるはずだ。
わお、正に迷宮入りのミステリーみたいだね。被害者と犯人は一体誰なんだろうね!両方俺だけど!
けらけらと可笑しくなって笑っていると、フランシスが呆れたようにべし、と俺の頭を黙らせるように叩いた。
「精神状態がやばいからそんな笑えるのかねぇ…ああ怖い」
「あははは!だって面白いじゃないか!事件は迷宮入りなんだぞー!」
「俺が一部始終見てたからそんな事にはならんだろうよ。後始末はちゃんとさせるからな」
それまでぶっ壊れるなよ、と呟かれた言葉に笑って拒否して、俺は医務室に連行された。
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[2009.09.22]