プラトニック・ラブ
この後お時間を頂けますか、と控え気味に問いかけられた言葉に断る理由も無くこくりと頷くと、それ以降の会話などお構いなしに俺は何処かへと引き摺られていった。
片付けなければならない仕事もそれ程少なくはないのであまり時間は取れないぞ、と言う俺の声も、彼には届いていないようだった。
「アーサーさん、今日は飲みましょう」
「…は?本田、お前なに言って」
「パブっても後処理は私がしますので、どうぞお構いなく」
「いやそうじゃなくて…いやそれもあるが…」
俺より小さな身体でずるずると引っ張る力は意外と強い。流石に男性だから、それとも俺が非力な所為か。
自分のペースで歩く事が出来ないのでたまに足が引っ掛かってこけそうになるが、寸での所で踏み止まるので大事にはならないで済んだ。
しかし本田が何処に向かっているのかは一向に分からない。聞いても答えてはくれない。
今更嫌と言う訳にもいかないし、本田の性格からして俺は断る事が出来なかった(断ると本気で悲しそうに目を伏せるからだ)。
けれど飲むイコール飲酒するとなれば話は別だ。
俺は酒が好きだが、弱いし酔うと人前には出れない程の醜態を晒してしまう。
脱ぐし叫ぶし泣くし…他にも色々あるようだが、どれも頭を抱えたくなるほど酷い事になるのは目に見えている。
酔いが醒めればその事に自己嫌悪して何度も死にたいと呟くのはもう、日常茶飯事になってしまっている。
そこまで鬱になるのなら飲酒を止めれば良いと言われるのだが、飲む事が好きな分、中々止められないでいた。
本田も俺の酒癖の悪さは知っている。普段なら善処します、また今度、と言ってするりと会話の輪から抜け出すと言うのに。
なのに今日は珍しく本田の方から誘ってきた。…何故、と疑問に思わないのは、心当たりがあり過ぎる所為だからだろう。
「お前、俺を酔わせてどうするんだよ」
「どうもしませんよ。ただお話させて頂くだけです」
「なら別に飲まなくたって…」
「アーサーさん」
ぴたりと歩いていた足を止めて本田が俺にくるり、と振り返った。
その顔がいつになく真剣に見えるのは気の所為だろうか。
本田より背の高い俺は必然的にその顔を見下ろす事になるのだが、真っ直ぐ見返してくる意思の強い視線にどきりとする。
いつもなら穏やかでよく笑う人なのに、時々こんな風に相手を射抜くような視線を寄越す事がある。
やはり一つの国だからか、自分が弱いと思われないようにそうしているのだろう。
最近は見る事が無かった彼の本気の視線に、少しだけびっくりして目を見開いた。
「本田、」
「ここで話すよりかは良いと思うんですよ。ね?」
「…あ、ああ」
にこりと満面の笑みの奥に逆らうとどうなるか分からない何か禍々しいものが見えて、俺は素直に頷くしかなかった。
先程の会議室で起こった出来事とはまるで立場が逆になっているが、そんな事、今は関係なかった。
断ったら間違いなく、俺の身に何かが起きる。そう頭の中で警鐘が鳴らされていたからだ。
俺の言葉に本田はもう一度笑って、なら行きましょう、とまた俺を引っ張って歩き出した。
今日はもう、仕事に手を付ける事は出来ないのだろうなぁ、と思いつつ、俺は大人しく本田の後を付いていった。
議事堂から徒歩数分、入り組んだ道を滑るように歩く彼を見て歩きなれているのだな、と思う。
俺も議事堂付近の地図は頭に叩き込んでいるので何処を歩いているのかは何となく分かるが、ここまで確実に道順を覚えている訳ではない。
この国にも久しぶりにきたので記憶が曖昧になっている部分が多い。それは本田も同じはずだ。
なのにどうしてここまですらすらと歩けるのだろうと聞くと、答えはあっさりと返ってきた。
「よく誘われるんですよ。フェリシアーノ君とルートヴィッヒさんに」
「…断らないんだな」
「断っても押し切られるので仕方ないんです。まあそう言う事もあって、今ではほとんどの国のよく行く酒場の道は把握してます」
「…そうか」
やはり彼も彼なりに苦労して努力しているんだな、と心の奥で思いながら辺りを見回した。
会議自体が夕方に行われていた所為か、入り組んだ道は既に暗い影が落ちてきている。
街灯もぽつぽつと点き始め、人の行き来は徐々に少なくなっているようだった。
こんなに早い時間に飲みに行くのは久しぶりかもしれない。
ここ数日はデスクワークばっかりで自分の部屋に引き籠りがちであまり外に出ていなかったし、飲む時間さえなかった。
書類に埋もれる日々も悪くはないが、ここまで缶詰状態だと嫌にもなるはずだ。
今日久しぶりに大勢の人と顔を合わせたのがとても新鮮に思えたのは、それだけ俺が働き詰めだったからなんだろう。
仕事が終わったらゆっくりとティータイムでもしようかと思っていたのに、まさか飲みに誘われるとは。
ストレス発散になるなら良いのかもしれないが、先程の会議で起こった出来事の後にそんな都合の良い事があるはずが…ない。
飲む前からひしひしと伝わる嫌な予感に、俺は盛大に溜め息を吐いた。
「どうぞ」
すっと差し出されたグラスを手に取ると、本田は自分のグラスを傾けて俺のグラスにかちん、とぶつけた。
カラリ、と中に入った氷が音を立てて崩れ落ちる。きつい酒の香りが鼻を刺激して少しだけ腹が鳴った。そう言えばまだ夕食を食べていなかった。
つまみは添えてあるがそれも多くはない。仕方なく注がれたウイスキーをちびちび飲むと、喉が焼けるように熱くなった。
議事堂からほど近い場所にあった酒場に投げ入れられる様に連れられて入ると、直ぐに本田が酒を注文した。
しかも度数の高いウイスキーだ。ロックだとは言え酔わせる気満々だろ、こいつ。
少しずつ飲めば量が減っていない事に気付かれないと思うのだが、果たしてそれで本田の目が誤魔化せるのかが怪しい所だ。
本田自身も似たような酒を頼んだようだが、何を頼んだかは分からなかった。そう言えば本田が飲んでいる所はあまり見た事が無いな…強いのか?
「アーサーさんはアルフレッドさんの事好きですか?」
「っ」
ぶ、と噴き出す事はしなかったが、飲んでいたウイスキーが喉に引っかかって盛大に噎せた。
げほげほと咳をすると本田が背中を擦ってくれるが、思ったより深い所に引っかかったのか中々落ち着く事が出来なかった。
酸欠になりかけて顔が真っ赤になった所で漸く咳が落ち着き、生理的に零れた涙を拭う。
人が考えている間に行き成りそんな事言うか普通!?…いや言うか…。で、でもまずは順序ってものをだな…!
何の脈絡もなく本田が言いだしたので俺はなんて返事をすればいいのか一瞬考えてしまった。
けれど咄嗟に出た言葉は激しい咳込み、後は言葉を成さない嗚咽だった。
「ああ、すみません。そこまで驚かれるとは思いませんでした」
「…」
それほどすまないと思ってなさそうな本田の声は他人事のように俺の耳に入ってくる。まああいつにとっては他人事だろうけど。
息を整えて呆れた顔で彼を見ると、にっこりと良い表情で笑っていた。なんだか怖いぞ。
すっかり酒を飲む気も失せてずるり、と二の腕をテーブルに乗せて肘をつく。
本田はグラスを傾けて中に入っている液体をこくりと音を立てて飲んでいた。結構減っているのに本田の顔はそれ程赤くない。顔に出ないタイプなんだろうか。
逆に俺は酸欠しかけた事もあってか、少しだけ顔が火照っている。熱い、と言う程でも無いし、まだ意識もあるからそんなに酔ってはいないはずだ。
ぐにゃりと眉間に皺を寄せて本田を睨んでみたが、彼はただ笑うだけで怖いと言う感情は一切流れてこなかった。そりゃ、こんな状態で睨まれても俺も怖くは無いけどさ。
なんだか自分だけがムキになっている様で居心地が悪い。飲む気が失せたと言うのにまだ半分残っているウイスキーを口に含むと、さっきより頭にぼんやりとした刺激が訪れた。
「そんなに怒らないでください」
「…怒ってない、ただびっくりしただけだ」
「じゃあ睨まないで下さい、怖いです」
「そうは思ってないだろ」
「まあそうですけど」
くすくすと笑う本田に更に眉を寄せて、またウイスキーを一口。
カラリと音を立てる氷が照明の光に反射して綺麗だなぁ、と俺はぼんやりと考えてふわふわと漂うアルコールの香りを満喫した。
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[2009.09.10]