プラトニック・ラブ


 「はしたない…と言うか破廉恥です!」

 そう言って菊は大きなハリセンを持って俺の頭を思いっきり叩いた。
 …君はそんな大きなものを一体何処から出したんだい?あと凄く痛いんだけど。
 ズキズキと痛む頭を涙目になりながら押さえて俺は菊を見上げた。
 睨みつける形相で菊は俺を見下ろしていた。…怒っている。それはもう怒髪天と呼べるほどに(それ以上かもしれない)。
 まるで鬼が小さな子ウサギに対して狙いを定めている様子に見えるぞ。と言う事は俺が子ウサギ役かな?

「このすっとこどっこい!そう言う発言は八橋に包んででも言うもんじゃありませんよ!」
「君が八橋に包みきれてないよ、菊」
「今は例外ですこのメタボ!」

 あ、人の気にしてる部分を強調して言うのは失礼なんだぞ、菊。
 いつもは慎ましやかな性格とか言っているけれど、そうズバズバと物を言われると流石に俺だって傷付くんだぞ…。
 何か言い返してやろうかと頬を膨らまして考えようとするが、菊はそれを一睨みでばっさりと切り捨てた。
 怖いってものじゃないぞ、これは。普段優しい人こそ胸の内に魔神を飼っていると言うけれど、彼は正にそれだ。
 背後に表現しがたい謎の威圧感を漂わせる菊は真面目に聞きなさい、と言わんばかりにもう一発俺の頭にハリセンを噛ました。
 スパァン!と乾いた音が鳴り響いて、命令口調に正座をさせられる。
 きっと理由も分からない人がこの通路を通った時には茫然とするのだろう。何せ世界に名を馳せる超大国が、こんな小さな爺さんにハリセンでぶっ叩かれて正座して泣いているのだから。
 自分でもシュールな光景だと思うよ。あ、痛い、痛いよ菊!もう最近の老人は気が短…いてっ!

「…アルフレッドさん、きちんと話を聞く気はあるんですか?」
「聞いてるし反省もちゃんとしてるよ!だからハリセンはそろそろ仕舞ったほうがいいと思うんだぞ!」
「はぁ…、まあ会議まで時間もありませんし、仕方ないですね」

 まだぶつぶつと何かを言っていたが、菊は渋々ハリセンを上着の中に入れて(物理法則無視してないかい?君の懐は四次元ポケットなのかい!)吐息を吐いた。
 完全にハリセンが隠れた事を確認して、俺は重い腰を上げて立ち上がる。さっきは見上げていた菊も、立ち上がればずっと下に顔があった。
 これだけ背が低いと言うのに、あの威圧感は一体何処から出てくるのだろうか…。これも年寄りの貫録ってやつなのだろうか。
 じっと菊の顔を見つめていると、視線を周りに向けていた彼自身が俺を見上げる。きっと周りに誰か居ないか確認していたんだろう。あれだけ怒る菊を見るのは久しぶりだし、本人も他人に見られたくなかったんだろう。もう遅いけど。
 ぐい、と細い腕で愛用のジャケットを引っ張った菊は俺の耳元で誰にも聞かれないように小声で呟いた。

「いいですか。とりあえずアーサーさんには謝れるだけ謝り倒してください。土下座とかも視野に入れて」
「謝るのは分かるけど…土下座って難し「何か言いましたか、アルフレッドさん」
「…いや、何も無いんだぞ…」

 だからお願いします、そんな至近距離で怒った顔に貼り付けた微笑みを浮かべないでください。マジで怖いです。
 風の音が耳を掠めるほどに縦に首を振る俺にやっと満足したのか、菊は身を引いて乱れてもいないネクタイを締め直した。
 そして困ったように笑って、いざとなったら私も説得しますから、とまるで子供に言い聞かせるように頭を少し横に傾ける。
 子供じゃないのに、と怒っても彼には伝わらないのだろう。彼にとって事実、俺は子供同然なのだから。いや年の差を考えると爺と孫クラスになりそうだ…。
 まあこんなグランパは全力で遠慮したい所だけどね!

 菊が言ったように会議までの時間はそれほど長くはない。
 どうせ行き先は同じなのだから、と菊と一緒に会議室まで歩く事にしたのは良いものの…やはり先程の出来事が気になって会話がうまく続かない。
 菊は気にしていないようだけれど、当事者である俺は気になって気になって仕方がなかった。話していてもアーサーの顔が浮かぶし。
 失礼な事だとは分かっているのだが、考えないようにしようとすると余計に頭に浮かんでくる。
 ああもう、アーサー…君ってやつは君の知らない所で俺の頭の中を滅茶苦茶にしてるんだぞ!それを理解してほしいね!
 むしゃくしゃする感情にがしがしと頭を掻いて落ち着かせていると、菊に飲み物は何が良いかと聞かれた。いつものコーラを頼もうとした所で喉がつっかえる。
 こんな状態では動力源とも呼べるハンバーガー達を食べてもちっとも美味しいとは感じないはずだ。まるでアーサーの飯みたいにまずくなったみたいに。
 仕方なくコーヒーと告げると、菊がびっくりしたように目を少しだけ見開いた。

「そんなにおかしいかい?」
「ええ、まあ。余程ダメージ受けていたんですね」
「…もうその話は遠慮したいんだぞ」

 考える事も止めたいと言うのに、口に出して言われると更に傷を抉る事になる。もう塞ぎこむのは勘弁したいんだぞ…。
 だって会議まで時間も無いし、俺が塞ぎこんで会議に出るとそれこそ一大事だと思われるじゃないか!
 凍りついた空気にはならないとは思うけれど、そうなればきっと会議どころじゃなくなるはずだ。最悪フランシスに病院送りを告げられるかもしれない。
 ふるふると首を振って話を無理矢理打ち切って歩みを止める。菊は何も言わずに静かに踵を返すとその場から立ち去った。きっと飲み物を頼みに行ったんだろう。
 ここに留まっておくべきか一瞬悩むが、これ以上菊と居ても気まずくなるだけなので早めに会議室に行く事に決めた。
 きっと菊なら待たなかった俺の事を怒りはしないだろう。なにせ彼は今の俺の心境を容易く理解出来るのだから。
 ああ、年寄りって本当に敵にしたくない存在だなぁと頭を抱えながら、俺は再び目的地へと歩き出した。


「よ〜アルフレッド…お前なにしてんの?」
「…見れば分からないかい?眠いから寝てるんだよ」
「えー…お前が寝不足だなんて嘘だろ」
「…君ってほんと俺の神経逆撫でする発言ばっかりだよね」
「お褒め頂き有難う」

 メルシー、とウィンクを飛ばす男に本気で殴りかかろうかと思ってしまう。
 微かに香る薔薇の香水が育て親を思い出させて、少しだけ上げた頭を元に戻した。
 会議室だと沢山人が居るので近付かれない雰囲気を出していれば構う者など居ないと思っていたのに、結局意味が無かったらしい。
 テーブルに突っ伏して寝たフリをした俺に失礼とかそう言った遠慮も無く話しかけてきたのは緩くウェーブの掛かった金髪を揺らめかせる髭男、フランシスだった。
 妙に後を引く彼の声は聞いているだけでも殴りたくなってくる。機嫌が悪い今では特に、だ。
 構わないでくれ、とくぐもった声で言ってもフランシスは俺に言い寄るのを止めようとはしない。お節介と言うか、からかいたいだけと言うか…とにかくうざい。
 ずれるテキサスが皮膚に食い込んで痛かったけれど、今はそれを直す事も面倒に思えた。

「はぁ…お前等ってほんと可愛くないし冷たいね。分かりやすいけど」
「うるさいよ。…ん?お前、等?」
「そうだよ。お前も、あの眉毛も、分かりやす過ぎるぞ」

 そうフランシスは呆れたように小さな声で呟いた。
 思わず顔を上げてしまった俺に顎であっち、と視線を向けるように示す。
 テキサスを片手で直しながらそちらの方向へゆるゆると視線を移すと、そこには悩みの種である育て親がティーカップを持って優雅にお茶を楽しんでいた。
 端から見れば何てことないいつもの彼なのだが、纏っているオーラがあまりにも違い過ぎている。まるで他者を一切寄せ付けない様な…ぎすぎすとした感じ。
 あの辺りだけ空気が凍り付いているかのような寒気を漂わせてアーサーはいつも通りにカップに口を付けていた。きっと中身は毎日飲んでいるミルクティーだ。
 うわぁ、とあからさまな彼の怒りに、今更ながら事の大きさが分かってくる。いや、分かっていた事だけれど…まさかここまでとは。
 今回の会議はいつものメンバーに合わせて十数カ国が集まったまあまあな大きさの会議だったりする。
 普段の小規模会議とは別の雰囲気の中での会議なので皆それなりにピシッとして気を引き締めているはずだ。
 俺も今日は慣れないスーツを着ているけれど、愛用のジャケットは手放せず、会議室に入るまでは羽織っていた。
 目の前のフランシスもいつものドきつい鮮やかな軍服とは違い、落ち着いた色のスーツを着ている。
 いつもの会議なら始まる前から話にならない状態になってしまうのだが、今回は皆はしゃぎ過ぎないようにと落ち着いた雰囲気で談笑している姿が多い。
 その中で…普段のこう言う規模の会議では英国紳士の嗜みとして仕事などの話を真面目にしている彼が、敵意剥き出しで他人を寄せ付けないようにしている。
 近付いてくる奴には容赦無い鉄槌が下されそうなその雰囲気に、気にする者は少なくは無かった。
 ちらちらとアーサーに向けられる視線はどれも恐れている、としか表現できないものばかり。俺の纏う近寄りがたいオーラとは格段にレベルが違っていた。
 さっと血の気が引く音を聞いたのは、これが初めてだった。うわあ、大丈夫かな今日の会議。

「…」
「まあそんな顔してるって事はやっぱりお前等なにかあったな」
「…俺の所為だ」
「うん、あれだけあいつの怒りを爆発させれるのはお前以外に居ないわ」

 言葉を失い、いっそ菊みたいに鎖国出来たらいいのに、と両手で頭を抱えたくなる。
 もうこの場から逃げたくなるよ!今日の会議、絶対上手くいかないと思うよ!アーサーを怒らせた俺の所為で!
 混乱した思考の中、目の端で菊がカップを抱えてひょっこりと現れ、その表情が凍りついたのはもう、見たくなかった。


 

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気の弱い人が見たらきっと天国行き。ライヴィスゥウウウウゥ!と言うエドァルドさんの叫び声がもれなく聞こえてきます。

[2009.09.05]