プラトニック・ラブ
ぱしん、と乾いた音が室内にこだまする。
それは拒絶を意味する反響音。
「ふざ、けんな…ッ!」
手を出したのは自分から。そして声を張り上げたのは、相手だった。
軽蔑と屈辱を孕んだ渾身の一振りは見事に俺の頬を直撃して、叩かれた箇所がじんわりと痛み始める。
痛い。ああ、痛いな。
至極当たり前のようにそれを受け入れてしまう自分が不思議だった。
本当は彼のように声を張り上げて「ふざけてなんかいない」と否定したかった。けれど、いざしようとしても声が喉に引っかかって上手く発音が出来ない。
結局黙っている事しか出来ず、俺は逆方向へ走り去って行った影を遠目に追った。
物心ついた時から既に俺の頭の中は彼一色に染まっていた。
忙しい時でも息を整える事無くやってきてくれた彼。笑いかければそれ以上に笑って慈しんでくれる彼。
俺の何から何まで、全てを優しく教えてくれた彼。
そんな彼を嫌いになる事なんて出来る筈がなかった。
いつしか膨れ上がった愛情は彼の与えてくれる愛とは別の愛情へと姿を変えていた。
その事に酷く焦ったのを今でも覚えている。どうして、何故、こんな感情を、彼に。
一般常識的に異性に抱くはずの恋愛感情。それを育ての親である彼に、アーサーに、抱いてしまった。
けれどその事に違和感を覚えなかったのは、きっと俺と言う国が様々な人々と文化を吸収している所為なんだろう(びっくりはしたけどね)。
それに俺達は人間とは違う。一般常識で纏められるほど、簡単なものじゃない。
自分にそう言い聞かせて都合の良い方向へと答えを導いた先に待っていたのは―…仕方の無い事だと笑う自分の姿。
好きになってしまったものは仕方ない。だって俺は人間とは違う、国なのだから。
常識なんか知らない、そんなものは…俺には通用しない。
そんな安易な答えに行き着いたのはやはり自分がまだ子供だからか(いや、もう俺は子供じゃない)、それともそんな言い訳がましい答えしか考えられない精神状態だったのか。
どちらにしろその時点で俺の心は既に決まっていたのだ。やっぱり、俺はアーサーの事が好きなのだと。
けれど彼は俺の想いを知るはずなんか無い。
何年も昔に彼から独立してから、アーサーは俺の事を拒絶している。
目に見える所でも、目に見えない所でも、無意識だとしても、拒絶している事は前から分かっていた。
ただ頼る者が居なかったから、そんな理由で離れる事が出来なかっただけ。
だから俺の他に頼る者が出来てしまったら―…そこで、アーサーと俺との小さな繋がりが完全に断たれる事になってしまう。
俺よりも古い知り合いのフランシス、最近でもよく連絡を取り合ってる菊。
彼らは俺にとっても頼りになる友人だけれども、アーサーが頼りにしている俺との距離が最も近い二人でもある(自分を褒め称え過ぎだって?だって本当の事じゃないか!)。
アーサーが今後俺よりも彼らを頼る事になってしまったら。…それはもう、考えたくないほどに俺の人生はどん底行きだろう。
そうしない為に、ここまで頑張ってきたというのに…。ああ、なんて事だ。
「…もう駄目だ…。どうしてあんな事言っちゃったんだろう…」
ずるずると廊下の壁に背中を擦りつけて項垂れる。
はあ、と溜め息を吐くと思った以上に大きな溜め息が出て、それだけ凹んでいるのだと自分でも思った。
思わず出てしまった言葉は彼に対していつも思っていたこと。
それを言う事は今後一切あり得ないはずだったと言うのに、ぽろり、と零してしまったのだ。しかも彼の目の前で、二人きりの状態で。
これなんて悪夢だい?神様、俺ってそんなに君に酷い事をしちゃったのかい?なんたってアーサーの目の前で言っちゃうんだよ!
彼の口癖である「馬鹿」を思わず連呼しちゃう所だよ!…自分に対して。
「あああ…もう、自分の口の軽さに嫌気を覚えそうだ」
数分経っても消えない頬の痛みはじんじんと俺の思考を刺激してくる。まるで自分のした事を思い知らされるみたいに。
夢であってほしい出来事なのに痛みは全く消えてくれない。むしろどんどん痛くなっている気さえする。
傷が抉られるみたいに、じくじく、じくじく、痛い。
もうこのままいっそ消えたいとも思ってしまう。けれど神様はそれを許してくれない。
神様、君はヒーローである俺にこんな辛い仕打ちをする事が好きなのかい?君ってとんだ鬼畜だね!
自業自得だと言えばそれまでなので勝手に責任転換してしまう自分が醜い。でも、そうしないと俺の精神がもたないんだ、仕方ない。
うん、全部仕方ない事なんだ。仕方のない…事なんだ。
「って納得できるほど俺は気楽に生きちゃいないよ!」
ジーザス!と叫びたくなってしまうが、先ほどから神様を貶し放題してしまっているので言う事が出来ない。歯痒い、歯痒いぞこれは。
悶々と上手くいかない全ての事に苛立ちを覚えそうになったその直前。
誰かが俺の肩をとんとん、と小さく突いた。
こんな酷い状態の俺を現実へと引き戻す奴は一体どこのどいつだい?と重い頭をゆっくりと上げると、そこにはさらさらの黒髪を揺らした少年が立っていた。否、見た目は俺より幼く見えるけれど、実際には俺よりもうんと年寄りな爺さんだ。
「…菊じゃないか」
「大丈夫ですか?こんな場所で座り込むなんて…」
「ぶー、何でもないんだぞ」
会いたくない人に会ってしまった、なんて口が裂けても言えない彼に拗ねた表情で俺は視線を逸らした。それ位ならいつもの事なので彼は気にしないのだろう。
彼―本田 菊は俺と同じ国と言う存在。極東の島国である日本、その彼を二百年の引きこもりから連れ出したのは紛う事無きこの俺、アメリカだった。
あれから随分時間が経ち、彼の国は目まぐるしく発展していった。あれだけ小さな島国が、今や世界に名を馳せる国になっているのだ。これはきっと引きこもりから連れ出した俺のおかげだよね!
最初は嫌々言っていた彼も今では俺と言う超大国と同等の立場で話し合っていて、俺にとっては良い友人の一人だ。
そんな彼がこんな風に心配してくれているのに、俺は菊に一方的な嫉妬をしている。
友達の筈なのに、そんな彼に嫉妬してしまうなんて…なんて愚かで醜いんだろう、ああ、本当に自分が嫌になるよ。
「何でも無くはなさそうなんですが…。またアーサーさんの事ですか?」
「えっ…ち、違うよ!」
「ふふ、分かりやすくて何よりです」
「違うってば!」
あからさまに「アーサー」の単語に反応した俺に、菊はにこりと笑って手を口に添える。
いつもは俺の言う事に素直にそうですね、って言ってくれるのに、どうしてこう…アーサーの話になると立場が逆転してしまうのだろう。
それだけ俺ってころころ表情を変えるんだろうか?分かりやすい?…うん、自分でも分かりやすいって少しだけ自覚してるよ。
菊はぽんぽん、と俺の頭を軽く叩いて(まるで子供をあやしているみたいに、だ。俺は子供じゃないのに!)俺の隣に腰を下ろした。
珍しい、いつもは地べたに座る事を嫌うと言うのに。しかも廊下に、だ。明日は雪でも降るんじゃないか?ここはイヴァンの国じゃないのにさ。
「今回はまた一段と塞ぎこんでいますが…どうしてそこまで?」
「…菊には関係ないよ」
「そう仰られても、会議でのあの気まずい空気はもう勘弁したいんですが」
「う…」
以前アーサーと喧嘩したまま会議に出た事を指摘され、俺は冷や汗を垂らした。
あの時も菊に相談したい事があったら言ってください、と言われたっけ。そして断ったんだっけ。その後の会議は、会議と呼べるものにならなかったんだっけ。そしてフランシスが気まずく凍り付いた会議室に頭を抱えて俺を叱ったんだっけ。
あんな事はもう金輪際するな、とこっ酷く叱られたっけ。ああ、思い出しただけでいらいら、いらいら。
どうして俺が怒られなくちゃいけないんだい?そりゃあ、きっと俺が悪いのかもしれない…けど、さ。でも俺は精一杯場を和ませようとしたし、気まずい空気を漂わせていたのはアーサーだし…。…もう止めよう、結局責任転換しても終わった事なんだし。
ぐちゃぐちゃの思考で訳が分からなくなりそうだった。もうどうしていいのか分からない。今日の俺の運勢はきっと最低だ。
じんわりと涙が浮かんで視界がぼやけてきて、菊にハンカチを手渡される。それを素直に受け取って、乱暴に目を拭った。
「それで、何があったんですか?少しずつで良いですから、話して下さい」
「…アーサーに、…言っちゃったんだ」
「何を…ですか?」
「…。君をぐっちゃぐちゃに犯して抱きしめてキスして俺無しじゃ生きられない身体にしてあげるって」
そう言い終わった瞬間に俺の頭にスパァン!と良い音と共に硬い何かが頭に直撃した。
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[2009.09.03]