プラトニック・ラブ
さらさらとした毛が頬を掠ってくすぐったい。
その感触に身動ぎすると、仄かに石鹸の香りがした。
ふわふわと夢心地の世界に飲まれていた所為か、その香りがやけに印象に残る。
手が触れている触れている場所は暖かくて、寝入る前の無機質なテーブルの冷たさとは大違いだ。
…ん?ならこの暖かいものは何だろう。
「ん…」
くらり、と軽く眩暈がする頭を起こして薄っすらと目を開ける。
周りが暗いのか、何を掴んでいたのか一瞬分からなかったけれど、瞬きする毎に目が慣れてそれが服だと理解する。
けれど自分が着ている物ではなかった。茶の分厚い材質にふかふかのボア。どこぞの奴が着ているジャケットにそっくりだ。
それが背中の方から見えると言う事は俺はもしかして背負わせているのだろうか?足が地面に着いている感覚が無いし、俺の意思関係無く身体が揺れて、尚且つ視界に入るものが動いているし。
と言う事は誰かが俺を背負って何処かに移動しているのだろう。ん?何処へだ?
確か意識が飛ぶ前は本田と酒場で話していたはずだ。何を喋ったのかは思い出したくは無いけれど、本田の前で見っとも無い姿を晒してしまったような気がする。
はぁ…本当に自分の酒の弱さには呆れてしまう。死にたい死にたい死にたい。
だが今は落ち込んではいられない。状況把握が最優先なのだから。
えっと、それで…散々本田の前で泣いた後に寝てしまって、気が付いたらこの状況になったと。
単純に考えると俺を背負っているのは本田が最有力なのかもしれないが、あんな小さな身体で俺を背負うなんて不可能に近い。
きっと俺が乗ったら潰れるだろうな、自分でも腰痛が最近辛いとか言ってたし。
じゃあ本田が知り合いに頼んで、その知り合いが俺を運んでいる?いやいや、それなら近くに本田が居る筈だ。ゆるゆると頭を動かしても、あの小柄な青年は視界に入らないから違うと言う事なんだろう。
…なら今俺を背負っているのは…誰だ?
俺を国と知っていて堂々と人攫い、なんて事は愚か者でも危ない橋を渡るような行為だ。拘束していないとなると尚更、人質に背中を見せるなんて以ての外、だ。
不意を突いて抜け出す事なんて俺じゃなくても軽々と出来るだろう。何せ目の前の奴は隙が有り過ぎる。
かえってそれが不自然なのだが、今はそれ以上の勘ぐりをしている場合じゃない。
大分目覚めてきた頭を相手に気付かれないように振って瞬きをする。伸びてきている前髪が目に入って痛かった。
「?…あ、目、覚めたかい?」
「…ぁ?」
そろり、と護身用の銃に手を掛けようかと思った瞬間、不意に明るい声が発せられる。
聞き覚えがあり過ぎるその声に懐へと入れようとした手がびくり、と震えた。
…まさか、なんて言う感情は安易過ぎたけれど、そう思う事しか今の俺には出来なかった。
左手で掴んでいるのはいつも羽織っているジャケット。頬を撫でていたのは子供の頃から変わらない石鹸の匂いがした金色の髪。
肩口から振り向いたその瞳は綺麗な空色で、―…俺から離れた後に掛け始めた眼鏡はそこには掛かっていなかった。
「…アルフレッド?」
「うん、おはようアーサー」
「なんで…、…。…!じゃない、下ろせ!」
どうしてお前がここに居るんだ、と問いかけようとした所ではっと思いだす。そう言えば今日のこいつのあの発言で俺はこいつの事を拒絶したんだ。
会議の席であれほど近寄って欲しくないとオーラを振りまきながら怒ったと言うのに、何故こいつはこうも笑っていられるんだ。まるで何事も無かったかのように。
なんだよ、お前俺が言った言葉で泣きそうな顔してたんじゃなかったのかよ、なんで笑うんだよ…。
割と本気でアルフレッドの背中を叩いて離れようとするのだが、超大国である奴の身体はびくともしなかった。
「痛いよアーサー」
「って思ってねえだろ!良いから降ろせ!」
「やだよ、降ろしたら逃げるじゃないか、君」
「当たり前だ!」
ぷすり、と後ろを向きながらアルフレッドは頬を膨らまして俺を支えている腕に力を込めた。
さっきは寝ぼけていて気が付かなかったのだが、アルフレッドの左頬が若干腫れている。その事に少し疑問を抱いたのだが、どうでもいい事かと放っておいた。
それよりもいつも掛けているテキサスが無い事の方が不思議に感じる。あれが無いと独立前のアルフレッドが頭を過ぎって気分が悪い。
顔をぐしゃりと歪ませて降ろせ、と呟いても、彼は降ろす素振りは見せなかった。
全ての始まりである問題発言と会議の時とはまるで立場が逆だ。俺が弱者の方になり下がってアルフレッドの思い通りにされている。
それはまだ俺が酔っている所為か、それとも本田に全部話して気が沈んでいる所為か。多分両方なんだろうな。
背負われているのは癪だが、無理矢理離れようとしても離れられない為、結局俺はアルフレッドに顔を見られないように俯いて身体を強張らせた。
「ねえアーサー」
「…」
「無視かい?まあそれでも良いけどさ」
夜の風が肌を撫でながら通り抜けていく。上着なんか着ていない俺はその冷たさに少しだけ鳥肌が立った。
もう直ぐ季節は冬に差し掛かるから当たり前なのだが、コートすら羽織っていないのは堪える。くそ、外に出るんだったら羽織らせろよ。寝ていた俺も悪いけれど。
外の空気が冷たい分、アルフレッドの体温は心地良くて身体を預けたくなるけれど、拒絶したのは俺の方だし、それはプライドが許さない。
前を向きながらぽつりぽつり、と話しだす声に無言を貫き、何も聞きたくないと耳を塞ぎたくなる。けれど両手をこいつから放してしまえばバランスが崩れるのは目に見えているので心の中で念じる事しか出来なかった。
ライトアップされた街並みはきらきらして綺麗だ。でもここはメインストリートでは無いらしく、それほど店や車の明かりが眩しくない。
その控え目な明かりに目を馴染ませて、俺は賑わっていそうな通りの方に視線を向けた。本田に引っ張り出された時は人は疎らだったけれど、今は仕事を終えた者達が帰宅するので混雑していそうだ。
流石にその中でこんな大の大人(しかも男)が年下の男におんぶされて歩くなんて恥ずかしくて主に俺が死にそうだ。こいつなら平気でやりそうだけど。
そこはちゃんと空気を呼んでくれたのか、はたまた人通りの少ない所で何かを仕出かそうとするのか…ああ、考えたくもない。前者であってくれますように。
「君はさ、子供の頃の俺のこと、愛してくれていたかい?」
「は!?お前何言ってんだ」
「あ、君はツンデレだから答えられないかい?」
「…っ!うるせえばか!悪かったな!ああそりゃ自分なりに精一杯愛情与えたつもりだったよ!それがこんなに…うう」
「そっか、前半は良かったけどどうして最後にネガティブになるんだい」
「うるせえ…」
俯いていてもアルフレッドがこちらを窺うように首を傾けたのが分かってべしりと背中を叩く。
あいたっ、と全く痛くなさそうな声を上げて奴は振り向く事を止めてぷすりと頬を膨らませる。
その事にほっとして、俺はつんと痛くなった鼻を小さくぐすり、と鳴らした。
こんな惨めな顔を見られたくないと言うのに、きっとアルフレッドは俺が泣きそうになっている事に気が付いているのだろう。自分でも情けない声が出たと思っているし。
けれどネガティブにならなければこのもやもやした気持ちを何処にぶつければ良いのか分からない。小さい頃のアルフレッドは本当に可愛らしくてまるで天使のようだと思ったのに。
それなのに今はあんな事言われるし、独立するし、ドン引きされるし…(いや最後のは俺の所為でもあるかもしれないけれど…いや、最後のだけじゃなくて全部?)。
思い出しただけでも部屋の隅の方で泣きたくなる。育て方間違えたかな…俺…。
「あー、君いま俺の人生根本的に否定しただろ」
「…してない」
「その一瞬の間が図星だと言ってるんだぞ!まあ良いけどさ」
「…」
HAHAHA、とにこやかに笑うアルフレッドとは正反対に、時間が増す毎にネガティブになっていく俺。
もういい加減ホテルに帰ってふかふかのベッドにダイブして眠ってしまいたい衝動に駆られそうだ。なんだよこの状況。今の俺にとって果てしなく拷問に近いぞ。
こいつが何処に向かっているのかも依然分からないし、聞いたとしてもこの状況から逃れる事が出来るとも思えない。
今俺の目の前には八方塞で一方通行の道しか無いと言う事だ。ああ、超逃げたい。
「ね、こう言うのはさ、本当は面と向かって言った方がいいと思うけど…君降ろしたら逃げちゃいそうだからこのまま言うけどいいよね?」
「…なにが。ってか聞きたくねえ」
「うん、そう言っても俺は反対意見は聞かないんだぞ!」
アルフレッドが空を見上げて呟く。俺も釣られて視線を上げたけれど、街のライトアップが明る過ぎる所為か夜空に広がる星々はよく見えなかった。
仕方なく視線を元に戻してちらり、とアルフレッドの顔を見やる。風に揺られて髪の隙間から石鹸の良い香りが鼻を擽ったが、肝心のアルフレッドの顔はよく見えなかった。
でも声のトーンで笑っているのが分かる。きっと小さい頃から変わらない、太陽みたいな顔で笑ってるんだと思う。
どうしてそこまで笑えるのか、俺には理解出来ない。俺は、お前を拒絶したと言うのに(もちろん今だって、)。
ふるふると俺は首を振って聞きたくないと呟いて降ろせと要求する。けれどやっぱりアルフレッドは俺の意見なんか聞かずに話を続けるんだ、
嫌だというのに、聞きたくないというのに、
「俺は君の事、初めて出会ってからずっとずーっと、大好きだったんだぞ」
お前はそう、笑って言うんだ。耳を塞ぐ事が出来ない、この俺に。
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[2009.10.11]