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半ば押し付けられてしまった謎の木の棒とリーマスさんみたいににこにこと笑う校長先生さんを交互に見ながら、私は盛大に溜め息を吐いた。 まじまじと手の中のものを見たって、感想は変わらず何の変哲もない木の棒、だ。強いて言えば綺麗に磨かれて光沢感があるのと、柄の部分が付いていて持ちやすい、位。 これが杖だと説明されても、俄かに信じられなかった。 「さぁ、振ってみなされ。疑問の答えは振れば分かる」 「…本当に振るだけで良いんですよね?」 「ほっほっほ、疑い深いお嬢さんじゃな。それだけで良いんじゃよ」 さあさあ、と催促してくる校長先生さんは期待と興味津々な眼差しで私を見つめてくる。まるで逃がさないかのようにじいっと見つめられて、私の逃げ場は本当の意味で無くなってしまった。 腹を括るしか選択肢は残されていない。分かってはいるけれど、その一動作が躊躇われる。 もし木の棒(杖ってもっとごついのかコミカルでファンタジーな物だと思ってた)を振って何かとんでもない事が起こってしまったら、なんて考えてしまうと振る事さえ出来ない。 いっその事、もうどうにでもなあれ、とやけくそになってしまおうか。そっちの方がまだ真顔で振るよりはマシだろう(何も起こらなかったらそれはそれで恥ずかしいし)。 もごもごと考えていたって時間は過ぎて行くのだ。校長先生さんだって痺れを切らして怒ってしまうかもしれないし。 「(…よし)えい」 高鳴る心臓を抑えつけてゆっくりと一振り。両手に持つ杖を軽い動作で振り上げる、それと同時に、変化は起こった。 まずガシャン、と近くにあったガラスが割れて、積み上げられた本がジャンプするみたいに宙を舞う。ひゅ、と一冊がこっちに向かってきて、私は慌ててしゃがみ込んだ。 変化はまだ止まらなくて、何故かなにもない所から紙吹雪がどっさりと落ちてきたり、かと思えば紙が花びらに変わってしまったり。 仕舞いには沢山の本が入った本棚がどさりと音を立てて崩れ落ちてしまった。書類もばらばら、本のページは花びらになった紙吹雪と一緒にびりびりに破れてしまっている。 …訳が、わからない。 呆気に取られて口をあんぐり開けたまま、私は無意識の内にそう呟いていた。 ただ木の棒を振り上げただけなのに、部屋は惨状と呼べるべき有様だった。なにこれ。なにこれなにこれ。 どうしてこうなったの、なんで、そんな、軽い気持ちだったのに、まさかこんなに悲惨な状態になるなんて。 握り締めていた杖を見下ろして、すっと顔が青ざめる。これが…魔法だって言うのか。 一瞬にして全ての物が壊れて大変なことになってしまった。どうしよう、これ、弁償してもしきれないかもしれない。古そうで高価なものとかが沢山、床に散らばってしまっている。 「ど、どうしよ…」 「これで分かったかね?君が魔法使いになれるという事を」 「はぁ、で、でもこれ!私、こんなことするつもりは…」 「それは分かっておる。知識も無ければ杖も合わんのじゃ、構わんよ」 「でも…」 もごもごと言い淀んでしまう私とは正反対に、校長先生さんはにんまりとした笑顔で髭を触っていた。 大惨事になってしまった状況を目の前にしてどうしてこんなに冷静で居られるんだろう。変な人だとは思っていたけれど、まさかここまでとは(失礼極まりないのだが本当に思うんだもの)。 握り締めていた杖はさっさとお返しして、もう一度辺りを見回す。自分でしてしまった以上、これは片付けなければいけないだろう。 さてどこから手に付けたらいいのやら、と近くに落ちていた数冊の本を抱えていると、それを制止するように校長先生さんが声を掛けた。 「大丈夫、あとはわしが片付けよう」 「え、でもこれ、全部は…」 「なに、問題ないよ。ほれ」 そう言って校長先生さんは返した杖を私と同じように軽く振った。するとたちまち無残に紙吹雪と化した本のページや書類達が一つずつくっ付いていって徐々に大きな塊になっていく。 無数のそれらが元の形である用紙に戻ると今度は元あった場所へと紙達は空を漂いながら帰っていった。 花びらは宙を舞いながら何処かへと姿を消し、本棚は元あった場所へと再び戻され、散乱していた中身も順番に棚の中に戻っていく。むしろ私が倒す前よりきっちり整理されているようにも見える。 まるで逆再生されていくような情景に私はただただぽかん、と口を開けるしかなかった。 「すごい…」 無意識に漏れた言葉に校長先生さんはさぞ満足したように微笑み、「じゃろう?」とお茶目な台詞を零した。 …これが魔法、なんだ。やっと今、初めてちゃんとした「魔法」を見た気がする。透明になったのも部屋を散らかしてしまったのも魔法だったんだろうけど、それとはまた違った感覚で「便利なもの」として認識していた魔法を初めて目にすることが出来た。 やっぱりここは私が知っている世界とは違う場所なんだ。木の棒一振りでいろんな事が出来てしまう、そんな世界なんだ。 じわじわと現実の波が押し寄せてくるなんとも言えない感覚が全身を包み込んで、私は少しその場で目眩を起こす。慌ただしく動いていた物達はすっかり静寂を取り戻していて、呼吸の音がやけに大きく聞こえた。 「さあさ、サインをしてくれる気にはなったかね?」 「ふえ?…あ、…あー…」 放心していた私の元に、校長先生さんが紙を差し出しながら言う。さっきと同じ、薄茶色の分厚そうな紙だ。 とても綺麗な筆記体で書かれた文字の羅列はこの学校についての色々が書かれているらしかった。沢山の文字が並んでいて、全部を読む気にはなれない。 下の方には少し広い空欄があって、どうやらそこにサインをしたら、私は晴れてこの学校の生徒になるらしい。こんなにあっさりしていて良いものなのだろうか、と再三考えたことを頭に浮かべる。 でも校長先生さんは引き下がる様子もなく、ただにこにこと笑って紙を手渡してくるだけだった。決めるのは君自身だよ、と言われている気がして、紙と校長先生さんを交互に何度も見つめる。ああ、うう。 長い沈黙の後、私は小さくこくん、と頷いてようやく答えを導き出した。それと同時に何処からともなく古めかしい羽ペンが目の前に現れる。…書け、と言うことだろう。 ふわふわと宙に浮くそれを慣れない手つきで受け取り、紙に押し付ける。元からインクが充填されていたのか、直ぐに紙に色が滲む。羽ペンなんて持ったことがなかったから、ペン先が紙に引っかかって字は綺麗に書けなかった。 時間を掛けて歪な字が並ぶ書類が出来たのは暫くしてからで、これで良いのだろうかと困惑しつつも私は書類を校長先生さんに返した。 ふんふんと髭を蓄えた口と鼻が上下に動いて校長先生さんは書類に目を通していく。きっと何度も目を通していると思うけれど、これは定例みたいなものなんだろう。 最後の書類に辿り着き、ばさっと書類から私の方へと顔を上げるまでの数分、鼓動は全然落ち着きを取り戻そうとはしなかった。 それでは―、と改めて校長先生さんは軽く咳払いをして、半月型の眼鏡をきらりと光らせる。 「ホグワーツへようこそ。ミス・」 「あ、は、はい。…お、お世話になります…」 そんなこんなで、私は魔法学校なるものの生徒になった。
境界の向こうのセカイ
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