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いつもの見慣れた街並み。
それを見る事は、もう無いだろう。
だから、私は目に焼き付けるように、その街並みをしっかりと見据えた。
毎日通っていた場所でも、じっくりと見て通っている訳では無いのでその記憶もあやふやだ。
あの通りの奥の店は何と言う名前だったか、あの家の隣には誰が住んでいたのか、そう言う事が家から少し離れた場所になると全く分からない。
だから、新居へと向かう道には沢山の新たな発見があった。
新しい発見があると、また新しいものを発見したがる。
そう言う私の性格がうずうずと身体を走っていく。探検したい、探検したい。
…少し位、寄り道しても良いだろうか。
どうせ後は自分が新居に行けば良いだけだし、誰かを待たせている訳でもない。
好きな時間に新居に行けば良い。帰りが遅いと咎める者も、もう居ないのだから。
そうすると、後は本能のままにただ只管歩く。何処でも良い、行きたい方向へ進む。
迷う事は無い。これでも記憶力は良い方だから、しっかりと目に焼き付けていれば元の場所に戻れる。
だから、通った事の無い路地や裏道などを散策する。探検する。
「あ、こんな所にお店なんかあったんだ」
小さな道を躓かないように慎重に歩いて、少し大きな通りに出る。
住宅街の中にひとつ、ふたつ、数えられる位の古いお店が戸を開けていた。
本当に営業しているのだろうか、と思えてしまうその出で立ち。商品も新品の様にまっさらだが、薄く埃を被って古く見えてしまう。
外から中を覗き込むと、私に全く気付かずに本を読んでいる老人が座敷に座っていた。
他の店も覗いてみたが、ほとんどこの店と同じように私に気付かない老人が居るか、店番が誰も居ない店しかなかった。
もうこんな場所に買い物に来る人など居ないからだろう。少し不用心に思えてしまうが、この通りに私一人しか居ない程人通りが少ないから大丈夫なのだろう。多分。
別の通りに出ると、そこはさっきよりも大きい通りで、住宅街はその通りで終わってしまっていた。
ここまで来ると、人通りは多くなる。と言っても、ごった返し、と言うほど多くはないが。
もう少し先には商店街があるので、そこに出るともっと沢山の人が居る筈だ。
けれど、そこまで人が歩いている場所に行きたい訳でもないので、私はくるりと方向転換して元来た道を戻った。
やはり、人が少なくて小道が多い住宅街を探検した方が楽しい。
ゆっくりと流れる時間。けれど、確実にその時間は進んでいる。
気が付けば空は緋色に染まり、太陽は沈んでここからでは見る事が出来なくなってしまっていた。
ポケットから携帯電話を取り出してディスプレイに映る時刻を見ると、もうそろそろ夕飯の支度を始めても良い位の時刻を示していた。
大変だ。そろそろ新居に向かわないといけない。
一応辺りが真っ暗になる前に家には行きたい。流石に夜の一人歩きは危険だし、人通りの少ない路地を女一人で移動していると、見るからに襲って下さいと言っているようなものだ(襲う程可愛いとか、綺麗な人じゃないけれど)。
それに、家に帰って家具の整理などをしていると、晩御飯の支度をする時間が無くなってしまう。…晩御飯抜きは駄目だ。絶対にお腹が空く。
思い立てば直ぐ実行に移さなければ。幸いまだ完全に日が沈んでいる訳ではないので、暗過ぎて道に迷うと言う事はない。
記憶力は良い方だが、暗くなってしまえば目的の場所まで辿り着けるかどうかは分からない。
見知った道が現れるまでに、どうか暗くなりませんように。
「えっと…、ここは左、次を真っ直ぐで…その後右に曲がって突き当りを右…」
記憶を頼りに来た道を戻り、細い路地を抜ける。
人通りがほとんど無い住宅街を抜けて更に移動する。
そうして十数分歩き続けると、漸く見覚えのある路地に辿り着く。
ここは家族と住んでいた家がある通りだ。…やっと、ここまで戻ってきた。
角を曲がって数件先の普通の住宅。そこが、実家だった場所。
今はもう、住んでる人も、気配もなにもない。
取り外された表札が、ここには誰も住んでいないと言う事を教えてくれている。
もう、ここは私の家じゃない。
分かっていたとしても、やはり心残りはある。
生まれてからずっとこの家に住んでいたし、ここで、この家で育ったのだ。
家族で笑い合って、生活した、家。
けれど、もうその面影は残っていない。新しい入居人を待つ家がぽつり、と建っているだけ。
思い出はちゃんと残っている。残っている筈なのに、外見だけでは分からない。
(…駄目だな)
今日から一新すると決めた筈なのに、こうして元我が家を見ると迷ってしまう。
もう、決めたのに。この家には戻らない、と。
後ろを振り向かないって言う事を。
決めたんだ。
思い出はちゃんと残ってる。この家にも、そして、私の心の中にも。
そうやって数分、見納めとなる元我が家を見つめて、私はその場所から駆けるように走り出した。
それが多分、間違いだったのかもしれない。
十数秒後、その近くの路地で飛び出しによる交通事故が起きた。
夕日の向こうのセカイ