序
おかえり、いってらっしゃい。
そんな当たり前の言葉を交わす事がなくなって、もう何年経つだろう。
狭く感じたリビングも、今はとても広く感じてしまう。
白い壁紙一色が目に焼き付くリビングを抜け出して、二階へ続く階段を駆け上がる。
二階に着き、真っ先に現れる扉を開けると、少し篭った匂いが鼻を刺激する。
部屋の主が居ない室内は、換気をしていない所為か少し黴臭い。
どうせ部屋にも入らないし、扉を開ける事も無いから換気はしなかった。
ずっと、あの時のままにしていようと思っていたから。
けれど、もうあの時の面影はまるで無い。
白一面の壁に、綺麗なままのフローリング。それだけ。
部屋の側面には備え付けのクローゼットがあって、それも開けてみた。けれど、中には何も入っていない。
この部屋の主が居なくなってしまってから、全てこの部屋にあった物は処分してしまったからだ。
パタリ、と音を立ててクローゼットの扉を閉めると、次の部屋へと駆け込む。
突き当たりを左に曲がると見える扉を開けると、そこは寝室だった。
ダブルベッドが一つと、シングルベッドが一つ。部屋を開けて直ぐ目の前に現れるベッド達。
この部屋も使われていなかったからか、少し篭った匂いがする。
ベッドにはシーツだけが皺無く綺麗に敷いてあり、触ってみると重みが掛かって無数の波を作った。
ぱふり、とダブルベッドに倒れる。少し湿った感じだが、身体を包み込む様な感じで寝心地が良い。
うつ伏せに倒れたまま部屋を見渡すと、部屋の隅に木製の古い机が置いてあった。
丈夫な作りで年期の入った机は使い込まれていて、机の主が大切に使っていた事が分かる。
ベッドから起き上がってその机の方に寄って行き、つやの掛かった机を撫でると、少しだけ埃が手に付いた。
この部屋も、もう誰も来る事が無い。
目ぼしい物が無くなり、次の部屋へと向かう。
更に突き当たりの目の前の扉に向かい、ドアノブに手を掛ける。
ガチャリ、と扉が開く音と共に、少しだけ木が軋む音が鳴り、部屋の扉が開いた。
部屋に入ると同時に感じる、さっきの部屋とは違う生活臭。
つい先ほどまで使われていたかの様な自然な香りはとても馴染みのある匂いだった。
けれど、部屋には何も無い。シングルベッドが一つ、端に置いてあるだけ。それだけだった。
使われていなかった寝室と同じ様にシーツだけが綺麗に敷いてあるだけのベッド。
…昨日まで使われていた、ベッド。
真新しく思えても、骨組みの木には少しだけ浅い傷が入っていたり、削られた後の様なものもある。
それが、ここに誰かが居て、住んでいたと言う証拠。
傷一つ無いフローリングと白一面の壁の中でも、確かにここに誰かが居たと言う証拠。
…私がここに居たと言う、証拠。
部屋には入らず、一通り室内を見渡すと、一つ溜め息を吐いて扉を閉める。
ここには、何も用はない。
もう飽きる位に見た部屋なのだから。
来た道を戻って階段を降りる。さっきとは違う、ゆっくりとした足並みで。
何も無い、真っ白な空間。
この慣れ親しんだ住家とも、もうお別れ。
一人で暮らすのは広すぎる家は、売り払う事にした。
家族との思い出が詰まった家だけれど、ずっとここに居たら余計に家族の事を思い出してしまいそうだから。
それに、今年から通う事になった学校はここから随分遠い場所にある。
ならば、狭くてもいいから、学校に近い所に引っ越そうと思った。
だから、この家にはもう、なにもない。
思い残す事は何も無いと思っていても、振り返ってしまう。
玄関まで漸く来たのに、外へと踏み出す一歩が重く感じられる。
ここから出てしまえば、私がここに居たという事が消されてしまう様な気がして、怖い。
けれど、そんな事は無い。私がここに居たと言う証拠はここに、ちゃんと残されている。
でも、こわい。
「…駄目だ。ちゃんとしないと」
今日から、私は変わるんだ。
新しい生活を、踏み出すんだ。
その為には、家族との思い出の場所から離れなければならない。
だいじょうぶ。私と、家族皆の思い出は、ここにちゃんと残ってる。
そう言い聞かせて、玄関の扉を開く。
「…さよなら」
最後にそう呟いて、私は新しい生活の第一歩を踏み出した。
夢の向こうのセカイ