紅茶の国の、

 テーブルにだらしなく肘をつきながら、ぼんやりと行われている仕草に見入る。
 視界がじんわりとフィルタが掛かったみたいにぼやけて、深く息を吸い込んだ。同時に花の香りが入りこんできて、また視界が滲む。
 香り高いそれの名前は広く知られているものらしい、けれど全くと言って良い程興味の無い者にとっては、へえ、としか言いようがなかった。
 そりゃあ、ちらりと耳にした事位はあるだろうけどさ、本当に知らないんだもの。
 無縁な所で育った訳じゃあ、無いけどさ。同じ系統だったりも、するんだけどさ。
 でもさ、緑茶一筋だったんだから、しょうがないじゃない。紅茶の事なんて、全く知らなくったって、おかしくないでしょう?
 少し怒りを込めてそう開き直った時、目の前の人は開けた口をぎゅうっと結んで私と同じ顔になったっけ(いや、元からそうだったっけ?)。
 流石に手は飛んでこなかったけど、今にも叩かれそうだった気がする。あの時の顔は、いつまで経っても忘れられない。
 きっと本気で怒ってた訳じゃあ無いんだろう。端からしてみれば笑い飛ばされる位のくだらない理由だもの。
 けれどあの人にとってしてみれば生活の一部だった訳で、それを知らないとのたまってしまったと言う事は大変失礼な訳で(更に付け加えると緑茶に詳しくてこれ程までに紅茶に疎いなんて誰も思わない訳で)。
 有無を言わさずエスコートも無しに引っ張られてきた先はなんの変哲もない、小さな喫茶店だった。
 こじんまりとした内装は少し前に流行ったレトロな感じで、このお店だけが時代に乗り遅れたみたいだと思ったっけ。
 贔屓にしている、と自慢げに話す横顔を見ながら店内を見回して、仕切られた一画に腰を下ろすと、普段は聞き手なあの人がよく喋っていたなあ。
 もう話の内容はすっかり忘れてしまったけれど、確か初心者にも分かりやすいように用語の説明からしてくれていた気がする。分からなかったけど。
 思わず横槍を入れたくなって口を開けようとすれば、その前にびしり、と指を差されてしまい、結局何も言えずに黙り込んでいたっけ。
 いや、きっといつもとは違う一面を見た所為でびっくりしたんだ。だから決して喋らせて貰えなかった事に対して悔しいとか、そんな事思ってなんか…多分無い、もん。
 けれどあの時出された紅茶は美味しかったな。贔屓にしていると言われただけあって、初めて飲んだその味は紅茶のイメージを一新したくらいだった。
 あとはもう、緑茶と同じ要領で考えればいいだけ。元が一緒だからこそ最初は取っつき難くてもきっかけがあれば直ぐに馴染む事が出来た。
 まあそれでも、一番は緑茶に変わりないし、進んで紅茶を飲もうとはしていないけれど。

「…で、湯が沸いたら…、おい、聞いてんのか?」
「えっ、あ、ごめん。全く聞いてなかった」
「…お前なあ」

 ぴたりと止まった仕草に漸く顔を上げてゆるりと一回、首を振った。相手はもちろん、いつもの呆れ顔を返してきて、おまけに吐息も落とす。
 こんな表情をしてくれるようになったのも、あの紅茶の話がきっかけだったんだよなあ。それまでは絵に描いたような英国紳士で、常にエスコートもしてくれた。今思うと、あれはただのご機嫌取りみたいなものなんだろうな。
 この人は色々な所に足を踏み入れているのだから、表面上の付き合いなんて当たり前の行為だもの。今までどれ程の人と接してきた事やら、私には想像もつかない。
 そして私は長い長い歴史の中の一人として、この人の記憶に刻まれる。でも多分、私が死んだら直ぐに忘れてしまうのだろう。
 所詮、私はただの小娘だから。世界の歴史に名を残したりしたら少しは覚えていてくれそうな気がするけど、まあ、ただの小娘にはそんな偉業なんて到底達成出来るものじゃない。
 じゃあどうして私達は出会ってしまったのか?どうしてこの人と長い事接しているのか?考えれば考えるほど疑問は浮かんでくるが、その答えを一言で表してみるならば…、うーん、そう、あれだ。
 結局は私がこの人の事を好きになってしまった。これに尽きるんじゃないかな。

「ごめんごめん、丁度お湯沸いたみたいだし、もう一回」
「今度はちゃんと聞いとけよ」
「はいはい」
「返事は一回」
「はぁい」

 けらけらと笑って再び作業に取り掛かる彼に視線を向ける。かっちりとしたシャツを捲くってエプロンを被ってる姿は何処かに居そうな主夫さんみたいだった。
 こんな人が主夫さんだったら毎日楽しいんだろうなあ…ああ、でも食事の時間は地獄と化すのか。
 紅茶を淹れる事に関しては師と崇めてもいい位の腕前なのに、どうして料理だけはいつもあんな出来になっちゃうんだろう、この人は。
 私も初めて見た時は失礼だが本気で命の心配をしてしまった程だ。あんなもの、料理のカテゴリーに分けちゃいけないと思う。焦げを通り越して真っ黒って、どう言う事なの。
 全ての事柄に置いて失敗は付き物だが、流石に四桁も生きている人の料理の腕前があれ程までに酷かったら、もうその人には才能が無いんだと分からせてあげるべきだと思う。同じ作り方をしているはずなのに、どうして片方だけ炭と言える代物が出来上がってしまうのだろう。もしかしてこの人の掌からは何か変なオーラとか出ていたりするのかしら(いやそれはないか)。
 この人の知り合いも口を揃えて私の意見に賛成してくれているのになあ。けれどどうにも本人がその気でないらしく、結局、今の所は野放し状態なのだ。
 早く止めさせてあげないと、このままじゃあいつ死人が出てもおかしくない。…神様、その犠牲者が私じゃ無い事を切に願います。
 悶々と頭の中で十字を切りながら恐怖の絵面を想像していると、ぴしり、と額に軽い衝撃がやってくる。
 現実に引き戻されるようなそれに若干の痛みを感じながら額を押さえ、ふと我に返る。ああ、いけないいけない、話が思いっきり脱線してしまっていたようだ。

、お前な」
「そんなに睨まないでよ、ちゃんと聞いてるから。で、その保温用のお湯ってもう一度使う事は出来ないの?」
「…なんだよ、聞いてるなら反応位寄越せよ、ばか」

 彼の言葉は語尾に行くほど小さくなっていったが、近くにいた事もあって最後の暴言もしっかりと私の耳に届いていた。
 けれど、その言葉について怒ったりはしない。むしろこの人にとっての「馬鹿」は一種の愛情表現なんだもの。今の言動だってほら、怒っているんじゃなくて構って欲しいって言ってるものじゃない。
 本人がそれを自覚しているのかしていないのかは分からないけれど(きっとしてないと思う)、少なくとも私にはそう見えた。
 彼に惹かれたのはこの可愛らしい反応の所為でもあるだろう。母性本能を擽られると言うか、もっと意地悪してみたいと言うか、なんと言うかそんなところ。
 見た目も中身も年上なのにね、何だろう、この無性に弄りたくなる気持ちは。私はサディストじゃあ、無い筈なんだけど。
 まあ、もちろんその他にも惹かれた理由は様々あるけれど、今回は割愛する事にする。だってこれ以上怒られたらキッチンから締め出されちゃうかもしれないし。
 そんな事になったら私が頭を下げてまで懇願した意味が無くなってしまう。だから今度こそちゃんと話を聞いて頭に叩き込まないと。
 わざわざ説明してくれたのに忘れたなんて言ってしまったら、彼は酷く悲しんでしまうから、ね。
 悪戯も程々にしておかないと、やり過ぎてしまったら元も子もない訳だし。その加減具合がまた面倒なんだけど、慣れてしまった今ではどうってこと無い。一歩間違えたら危ないけど。
 失言だけは気を付けないとなあ、とポットにお湯を注ぎながらすらすらと説明していく彼を見つめた。

「後は茶葉が開くまで待つだけだ。この葉だと二、三分だな」
「曖昧だね」
「こればっかりは好みによるからな…緑茶はそうでもねえか」
「うーん、玉露とかは摘出早めだから好み云々言う前に終わっちゃうしなあ」

 でも出がらしとかだと調節出来るよ、と付け加えたら、彼は懐中時計に向けていた視線をこちらに持ってきてご丁寧に睨み付けてくれた。
 そこまで睨みつけなくたって良いのに、眉毛が面白い形になってるよ、アーサーさん。
 思わず口元を隠した手の中で小さくぷすりと笑うと、隙間からくぐもった声が漏れる。慌てて咳で誤魔化したら不審がられた。

「はあ…、お前出がらし何か飲んでんのかよ」
「え、なにその溜め息。たまにだから良いじゃない、水の代わりだけど美味しいよ」
「だからって仮にも茶屋出身が出がらしとか飲むか、普通」

 首を左右に振りながらないない、と呆れる彼にちょっとかちんと来る。だって仕方ないじゃない、こっちも商売なんだもの。
 売り物に手を付ける訳にもいかないし、かと言って市販品を飲むのも本末転倒な気がするし。
 それに、自分用には茶園さんから等級が低いものをお裾分けしてもらってるんだから、それを飲んだっておかしくないでしょう?
 ぽこぽこと頭から湯気を出して頬を膨らませると、彼からまた同じツッコミがやってくる。でも出がらしなんだろ、なんて言われて、結局次の言葉は喉に引っ掛かったまま出て来なかった。
 うう、そのツッコミを言われてしまったら言い返しようが無いじゃないか。仕方ないじゃない、まだ使えるのに勿体無いんだもの。
 紅茶と違ってこっちは二番茶も三番茶も美味しいんだから、別に同じ物を繰り返し使ったって罰は当たらないだろう!
 あと誤解しないで欲しいのだが、出がらしなのはごくたまにであって、いつもは一番茶なんだからね。だからそんな、軽蔑するような目で見ないでよ、傷付くじゃない。

「…お前が良いならこれ以上の口出しはしねえよ、っと…時間だな」
「うー…なんか腑に落ちない」
「そんな事言うなって。ほら、出来たぞ」

 温めておいたカップに出来上がった紅茶を注ぎ入れて、彼は私の前にソーサーを置く。ふわふわと湯気に乗って良い匂いがまた鼻に抜けて行った。
 彼は自分のカップにも紅茶を入れて、残りの分は別のポットに移し、私に置いてあったシュガーポットを寄越した。それを有難く受け取って瓶の中の砂糖をさらり、とカップの中に入れる。
 くるくるとスプーンを回せばすんなりと砂糖は乳白色の液体に溶けていく。ミルクが既に入っているのは彼の淹れ方がいつもこうだからだ。他人に淹れる時はストレートの場合もあるので隣にミルクピッチャーを置いているらしいのだが、私や彼の知人にはこうやって好みに合わせてミルクを先に入れてくれるのだ。
 私はストレートでもミルクティーでも構わないので、彼の好きなようにしてもらっている。そう言えば、彼の国ではミルクを先に入れるか後に入れるかの議論が凄い事になっている、なんて話があったっけ。
 アーサーさん個人はどうやら先入れ派みたいだけれど、ぶっちゃけどっちでも良い様な気がする。どうせ味に変わりは無いんだしさ。
 それよりそんな議論をしている事の方に驚いた。紅茶好きにも程があると言うか、なんと言うか…、とにかく、至極どうでも良い議題だとは言っておこう。
 話をしてくれた彼ももっと他に議論すべき事は山ほどあるだろうに、と漏らしていたが、自国の事なのでそれ以上は何も言わなかった。否、言えなかったんだろう。代わりに色々と突っ込んであげたら苦笑していたし。
 当時を思い出しながらくすりと笑っていると、気付いた彼が首を傾げて分かりやすく疑問符を浮かべていた。それに何でもないよ、と笑いを深めてカップに口付ける。

「変な奴だな。…ああ、さっきの質問だが」
「ん?あー、保温がどうのこうの?」
「ああ、それ。捨てるのが勿体無いなら別に戻しても構わねえぞ。ただ、沸かし過ぎに注意しろよ、上手くジャンピングしねえから」
「ほほう、なるほど。よく分かんないけど使い回しはしていいって事だね」
「…おまえなー」

 呆れた声でアーサーさんがぶつぶつと独り言を呟いていくけれど、私はそれを軽くスルーして良い香りのする紅茶に舌鼓する。
 心地良いまろやかさは喉を通る度にじんわりと身体に広がっていって、緑茶とは違った風味が私を支配していった。
 …ああ、おいしい。

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あんまり紅茶の話してなくてすみません。

[2010.12.08]