散りゆく薔薇のように

「今日もよろしくお願いします、アントーニョさん」
「ほな、最初からやるでー」
 
 かつん、と黒塗りのヒールを鳴らして、私は長いスカートを摘み上げた。
 目線は少し高め、決して下を向かないように注意しながら顔を上げて姿勢を正す。
 短期間ながらもだんだん様になってきた自分の姿を鏡越しに見ながら、軽くステップを踏む。
 たん、と使い古された床が軽快な音を立てて部屋に反響して心地良い。
 ゆったりと、けど徐々にテンポが上がって行く音楽に合わせて踵を鳴らす。たん、たたん、たん。思わず上がる息をステップの間に吐き出して、くるりとターンを一回。
 次々と教えられた通りに足を動かしていき、音楽に遅れないようについていく。最後にもう一度ターンをすると、ふわりとスカートが弧を描いた。
 
ちゃん、ほんま飲み込み早いなあ…これやったらもう十分やと思うで?」
「いえ、まだまだアントーニョさんのように格好良く出来ないですから練習あるのみですよ!」
「えー…、でも一発芸かなんかなんやろ?そこまで本格的にせんでも…」
「駄目です!やるならとことんしないと私が納得出来ません!…迷惑なら止めますけど」
「や、別に迷惑では無いんやけど…ちょっと頑張り過ぎてる気がしてなあ」
 
 ぶるぶると思いきり首を横に振る私に、アントーニョさんは頬を掻きながら苦笑した。
 そんなに頑張り過ぎてるかなあ、私。この部屋に来てまだ一月経つか経たないかって言う位だし、ほぼ毎日通っているとは言え練習時間は仕事終わりの一、二時間ほどだ。
 そりゃあ、自宅に帰っても復習がてらステップを踏む事はあるけれど、そこまでみっちりと練習している訳では無かった。
 
 …さて、私がわざわざスペインに来て教わっているものが何なのか、予想が付いている方も居るとは思うけれど、正解はスペインで伝統的に踊られているダンス、フラメンコだ。
 曲調によって激しいステップを繰り返すものや簡単なもの、様々な種類があるけれど、割と明るい曲が多めなのはお国柄が出ているのかもしれない。齧った程度の知識だから本当なのかは分からないけれど。
 日本の踊りとはまた違った雰囲気を醸し出すそれを、何故わざわざスペインにまで押し掛けて本格的に教わっているのか。その答えは今から一月ほど前に遡る。
 その場の勢いと言ってしまえばそれまでなんだけれど、私はその時、多分酔っぱらっていたんだと思う。慣れない宴会に出席して、慣れないお酒を飲み交わして、慣れないスキンシップに頭がこんがらがって。
 誰かが言い出した提案に周りの皆が賛成して、私も思わず乗っかってしまったのだ。次の宴会には各自見世物を出すように、と。
 今となっては後悔する以外の何物でもないんだけれど、酔いが覚めた翌日でもその提案は破棄されず、それどころか余計に盛り上がりを見せていて皆やる気満々で案を出し合っていたのだ。
 そして私にも期待しているぞ、と肩を叩かれれば、もう逃げる事は出来まい。上司命令なら尚更。
 その日は二日酔いと出し物を何にするかの頭痛に一日中悩まされて、ふと案が浮かんだのはベッドの上で魘されていた時だった。
 きっと夢に出てきたのかもしれない。目が覚めた時には既に携帯電話を持っていて、私は吸い込まれるようにボタンを押していた。ディスプレイに表示されていたのはアントーニョさんの名前。
 そして応答音が途切れた後、私はぽつりと呟いていた。「フラメンコを教えて下さい」と。
 
「でも俺が居らん所でそんな面白い事があったんやなぁ…フェリちゃんと一緒に行ったら良かったわー」
「あー…えー、現場は散々な状況でしたよ…。フランシスさんとか、アーサーさんとか暴れまわる人が沢山居ましたから…」
「何となく想像出来る所があいつ等やなあ」
 
 けらけらと空笑いをするアントーニョさんにはあの時の情景が簡単に想像出来るんだろう。そしてやっぱり関わらん方が良かったなあ、と一言呟いた。
 その言葉に私は心の中で何度も頷くが、決して口には出さない。出したら私の首がもれなく飛んでいくからだ。
 国の方達は私にとって上司よりも遥かに上の立場の人で、こうして談笑するのも本来は恐れ多くて出来る筈もない事だった。
 けれど事の流れに身を任せて黙々と仕事をしている内に何故か国の方々と繋がりが出来てしまったのだ。同期の友人は羨ましがっていたけれど、上司の視線に震える毎日なんだから一概に喜びを感じれないのが現実だった。
 それでも皆さんが優しくしてくれるから私は今この場で笑っていられるんだ。こればっかりは感謝してもしきれない。
 
「けど今度は一緒に行こうなー?」
「え?関わりたくないんじゃ…」
「それはそうやけど、ちゃんが踊る所は見んとあかんしなあ。教え子の初舞台なんやで?親分が行かな、な!」
「え、いやあの」
 
 そう言われるとプレッシャー掛かるんですけど…、生憎と目の前の先生には届いていないようだった。
 初舞台なんて大層なものじゃあないのに、わざわざ見にきてもらうだなんて申し訳ない事この上ない。
 あわわわ、と手を振って大丈夫ですから、と呟いたら、逆にアントーニョさんは目尻を細めて口をむにゅりと噤ませた。
 
「…そんなに嫌なん?俺が見に行くの」
「い、いえそう言う事では…無いんですけど」
「じゃあ行ってもええ?」
 
 お願いですからそんなに悲しそうな目をしないでください。そんな捨てられた子犬のような目をされたら頷く以外他に無いじゃないですか!
 我が国である菊さんの様に軽く善処します、と微笑む事も出来ず、私は結局小さくこくり、と頷いた。
 
「やった!ほんならまた練習再開しよか!」
 
 ぱあ、と私が頷いた事に対して満面の笑みを浮かべたアントーニョさんは鼻歌交じりにタオルで汗を拭う。
 さっきまで雨模様だった天気が一瞬にして雲ひとつない快晴に早変わりした気がして、ちょっと心の奥がもやもやした。良いように扱われてる気がしないでもない…。うう、私ってば本当に押しに弱いなあ。
 でも教えて貰っている身でもあるんだから、否定の言葉を述べるのもいけないし…うう、でもお酒が入らない素面の状態で踊るんだから理性ってものもあるし…恥ずかしいし。
 そう考えれば頭を抱えずにはいられない。ああもう、今更ながら何故フラメンコに行ってしまったの、私の思考は。どうして変な方向に事は進んでいくんだ。
 これも全てお酒の所為だ、うん、お酒が全部悪い。酔っぱらった皆は多分きっと、数パーセントを残して恐らく悪くない。断言出来ないのは自分も悪いと思ってるからだ。こうなったら禁酒でもしようかな…。
 
「いや、でも仕事をしていくにはやっぱりお酒は止められないし…うーん」
ちゃん?どうしたん、独り言?」
「あ、すみません。ちょっと考えが迷走してました」
「そうなん?疲れてるんやったら今日はもう止めとく?」
 
 心配そうに顔を覗き込んでくるアントーニョさんに(顔近い!)風の音が鳴る位頭を振って何でもない事をアピールする。
 いけない、どうやら私の考えも変な方向に進んでいってるみたいだ。他人に心配を掛けるなんて情けない。
 ぺしり、と頬を叩いて気持ちを入れ替え、もう一度大丈夫です、とアントーニョさんに笑い掛ける。ほにゃりと笑い返してくれる彼にほっとして練習を再開させようとスカートの裾を摘んだ。
 その時だ、がちゃりとドアが開いて誰かが入ってきたのは。
 
「おーやってるやってる、練習お疲れさん」
「フランシスさん!」
 
 ひょこっと色褪せたドアから部屋を覗き込んだのは、緩いウェーブがかった金髪を持つ自称お兄さんだった。
 外見は私よりも幾つか年上だし、中身はお兄さんを通り越している年齢なので正直お兄さんとは言い難い。でもそこは敢えて突っ込まない事にしている。何となくフランシスさんが可哀想だし。
 ぺこりとお辞儀をして練習に戻ろうか悩んだけれど、アントーニョさんが掛けていた音楽をストップさせたので、私は再度フランシスさんの方へ向き直った。
 
「なんやフランシス、冷やかしかいな」
「そんなギルベルトみたいな事する訳無いでしょ。ちゃんが出し物の練習してるって聞いたから応援に来ただけ」
「え…そんな、わざわざ有難う御座います」
 
 床を軋ませて部屋に入るフランシスさんに駆け寄り、また一つぺこりとお辞儀をする。そして顔を上げたら頭を撫でられた。くすぐったい。
 髪が乱れないように優しく撫でるフランシスさんの手は嫌いじゃない。まあ、エスカレートしていくと髪以外の所を触られるので嫌だけど。
 アントーニョさんとはまた違った手付きに自然と笑みが零れて目を細めていると、がばっと後ろから抱き込まれて変な声が出た。
 
「ひょあっ!?あ、んとーにょさん?」
「フランシス、練習の邪魔はせんといてくれる?」
「えー何だよ、別にちょっと位良いじゃない、ねえちゃん。お兄さんと踊ろうよー」
「お前と踊ったらセクハラされるからちゃんは渡さへんで」
「えっ、え、あの」
 
 足が縺れそうになるのを必死に踏ん張ってバランスを取り戻すと、そこで漸く自分の置かれている状況を理解する。ん、あれ?私なんでアントーニョさんにハグされてるんだろう。
 しかも心なしか頭上でばちばちと火花が散る音が聞こえるんですけど…物凄く気の所為だと思いたい。
 けれど現実とは非情である。ああ、見上げた二人の顔が恐ろしくて見れません。誰か助けて下さい。
 こう言う時って何て言えばいいんだろう。どうやってこの二人を止めればいいんだろう。ええーと、確かそう、昔見た少女漫画で似たようなシーンがあったような…。あ、思い出した。
 
「きゃーわたしの為に争わないでー」
ちゃんそれ凄く棒読みになってる」
「とか言ってどさくさに紛れて胸触ろうとしいなやフランシス」

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何処からかネジが吹っ飛びました。

[2010.06.29]