それはきっと特別な、

「なあなあ、親分」
「ん?どうしたん、
「キスしたって」

 ぴしりと固まった目の前の人は、徐々に青褪めた顔になっていって、最終的には私の両腕を掴んで叫ぶ始末。
 何処で覚えたん、そんな台詞!と力いっぱい揺さぶられると、世界がぐるぐる回った気がした。


 ぺらぺらとめくる分厚い本の背表紙をなぞると、箔押しの窪んだ場所に辿りつく。でも背表紙は目に入らない位置にあるので、何て書いてあるかは分からなかった。
 表紙との質感が違うその部分を爪で掻いて風の音しか聞こえていなかった空間に新たな音を作り出す。かりかり、かりかり。
 目で追う場所が端まで行けば一旦音を出すのを止めて、背表紙に回した指を動かし次のページを捲る。
 新たなページに進んだら、再び窪んだ場所をかりかり。それを繰り返す事数ページ、掻いていた人差し指が根を上げた。もう、暇つぶしにもならない。
 頬に溜まった空気をぷすりと口から出して首を後ろに倒すと、そっちも長時間同じ姿勢だった所為で悲鳴が上がった。痛かった。

「ひまだ」

 呟いた声は私以外の耳に届く事は無く、返事もある訳がなかった。遠くの方で鳥の囀りが聞こえていたけど、それを返事と決めてしまうのは流石に不憫なのでしないでおく。
 ソファの端でぽつりと座っているのは寂しくて、自分の部屋に籠ってみたらもっと寂しく思えたので、今はまたリビングのソファの上でぽつりと身体を丸めて本を読んでいる。
 一人で居る家は広くて静かだ。普段なら保護者である人や、お友達が遊びに来たりしている筈なんだけど、生憎今日は皆不在。家には私一人だけだった。
 何でも会議とか言うのに参加しているらしくて、保護者が帰ってくるにはまだ暫く時間が掛かるらしい。
 いつもなら五月蠅くてうざいと思う人なのに、こんな風に一人でぽつんとしてるとあの五月蠅さが恋しく思えてしまう。
 おかしいな、保護者に拾われる前は一人だった筈なのに。いつの間にやら賑やかな周りが当たり前になってしまっていて、静けさを忘れてしまっていたようだ。
 でも夜は皆静かだし、私もその静けさに身を任せてぐっすりと眠ってしまっている。この違いは一体何なんだろう?お日様が昇っているかいないか?辺りが暗いか、暗くないか?
 それとも誰かが居るか居ないか、だろうか。人の気配があるから安心して眠ってしまっているのだろうか。そうだとしたら、いつから私は孤独と言うものが苦手になったんだろう。

「昔は一人でも頑張ってたのに」

 いつから他人に頼りきってしまったんだろう。口に出した疑問は直ぐに自分の中から答えが返ってくる。拾われた時からだ。
 保護者が出来た時から私は弱くなっていったんだ。危険に晒されないように部屋に迎え入れられて、帰る場所を与えて貰って、お世話してもらって。
 人の行為に甘えてしまった時点で、私は強くなる事を止めた。誰かが守ってくれると思って孤独から目を背けた。振り向いたら誰かが居ると思いこんで安心しきっていた。
 私と彼等は別々の存在なのだからそんな事がある筈無いのに。個人だからこそ都合が悪ければ私の前から居なくなるし、暇な時なら一緒に居てくれる。
 彼等は仕事をしていて、尚且つ忙しい人達なのだから、今までずっと誰かが傍に居た事の方がおかしいのだ。偶然が重なったとは言え、これは奇跡に近いと言えよう。

 そして今日、この日の仕事は今まで以上に大規模な会議らしく、テレビでも大きく取り上げられる程沢山の人達が集まるらしい。
 いつも遊びに来ている人も保護者である人もその会議に参加していて、誰もこの家に来る事が出来なかった。だからこうして私は一人で留守番中なのだ。
 会議は夕方までには終わるらしいから、暗くなる前に保護者は帰ってくる筈だけど、それまでの暇つぶしの時間がとてつもなく長かった。こんなに長い時間一人で居るのは、この家に来てから初めてかもしれない。
 最初はニュースペーパーを引っ張り出してきたり、保護者の内職を手伝ってみたりしたが、直ぐに飽きてしまった。今は本棚にあった分厚い本を読み漁っている最中。
 背表紙の金色の文字が一際目に引いたそれを引っ張り出してソファに転がったのは良いけれど、出した本は文学小説でも歴史が絡んだ本でも自叙伝でも無く、ただの辞書だった。
 しっかりとした作りの辞書は大分古いもので、中身は日に焼けて黄ばんでしまっている。それでも破れているページは一つも無く、丁寧に使われている事が分かった。

「て、てぃ…?」

 ずらりと並べられたスペイン語を指でなぞり、声に出して発音していく。
 昔はこんな風に文字を読むのにも小一時間悩んで苦労したけれど、保護者に手取り足とり教えて貰った今では大体の文章は読み書きできるようになっていた。
 それでもまだ分からない単語とかは無くならなくて、本を読んでいても時々教えて貰う事がある。ここはこんな表現だとか、こう言う意味だとか。
 辞書があるんだから自分で調べろとか言えばいいのに、私の保護者は何処まで親切にしてくれるんだ、一体。
 ぽこっと頭の上に浮かんだ陽気な笑顔に口をむにゃむにゃ動かして、再び辞書に視線を戻した。

「て…、Te amo?」

 きっと上手く発音は出来た筈だけど、口にした言葉の意味は分からなかった。えーっと、どう言う意味なんだろう。
 横に書かれている説明文を目で追って、頭を左右に振って行く。数行足らずの簡素な説明は私でも分かり易く丁寧に纏められていた。
 それによると、どうやら大切な人に対して贈る言葉らしい。馴染みの無い言葉だと思ったけど、するりと口から出る感覚は今までに覚えた言葉より自然だった。
 多分、私はこの言葉が好きなんだろうな。どう言う時に使えばいい台詞なのかは分からないけれど、とりあえず保護者が帰ってきたら使ってみよう。
 その間に他の知らない言葉を覚えて、保護者を驚かせてやろう。どんな顔するんだろう?楽しみ。
 わくわくしながら今覚えた言葉に関連していそうな文を探して、私はくすくすと小さく笑った。


 そして話は冒頭に戻る。辞書を見始めてから大分日が傾いた時間に、私の保護者であるアントーニョさん…通称親分が息を切らせて帰ってきた。
 なんでも会議中に私の顔が頭を過ぎり、大人しく留守番をしているのか心配で仕方なかったらしい。信用されてない気がしてちょっとむすっとしたら謝られた(私、そんなにやんちゃじゃないのに)。
 仕方なく私が彼に対して頭を撫でるとどっちが保護者か分からなくなる。おかしいな、普通なら私が撫でられる方じゃなかったっけ、と物欲しそうに強請ってみたら、ぽふぽふと太陽みたいな眩しい笑顔で頭を撫でてくれた。
 一人で留守番ありがとうな、と親分は軽やかな動作で私を抱き上げて、ぎゅっと抱きしめる。重心が後ろにあった所為で私は親分と一緒にソファにダイブしてしまったけど、ちゃんと支えられていたのでバランスを崩す事はなかった。
 そうやって数分程じゃれあって、私はお昼に練習したあの台詞を言ったのだ。なあ、親分。Te amo、愛したって。

「おやぶん?」

 まるで人形のように息すらも止まってしまった親分は私の方を見て、目を真ん丸にしていた。その綺麗な緑色は宝石のエメラルドのようだ。
 褐色の肌に映えるそれの中には私が映っていて、同じ緑色の目がぶつかった気がした。
 初めて見る思考停止状態の親分にまずい事でも言ってしまっただろうか、と不安になって問い掛けると、漸く私の声に反応した親分はぱちりと目を瞬かせた。
 途端、ばっと寝転がっていた姿勢を起こして座った状態になる。親分の上に転がっていた私も勢いで一緒にころりと起き上がり、親分の膝上に座る状態になった。

、ちょっとええか?」
「ん」
「何処で覚えたん、それ」
「うゆ、本で読んだだけー。親分にゆーたらあかんの?」
「いや別に言うてもええけど…じゃなくて、えー、何て言ったらええかな…」

 かりかりと頭を掻いて親分は珍しく難しそうな顔になる。眉間に皺を寄せて口を曲がらせる姿は近所に住んでいる気難しい人に似ていた。
 私は首を傾げて親分が悩んでいる姿をじっと見つめていたけれど、いつまで経っても答えが出ないみたいなので直ぐに視線を下ろした。だって、親分を見ようとするとずっと顔を上げてないといけないから首が疲れるんだもん。
 只でさえ本を読んで首がお疲れ気味なのに、これ以上首を酷使する訳にはいかない。そっと首に手を回して触れてみると、柔らかい肌の下に硬い部分があって凝ってるんだなって思った。お疲れ、私の首。

「とにかく、今言うたのは他の人に言ったらあかん。言いふらすのもやで」
「じゃあ親分にだけしか言えないの?」
「…。ま、まあそう言う事になるなあ…」
「わかった、じゃあ親分にだけゆーことにする」

 お許しが出た所で、もう一度私は親分に抱きついてさっきの台詞を呟く。言っている内にまた言葉の意味が分からなくなっていたけど、まあ軽く放っておく事にしよう。どうせ辞書を見れば分かる事だし。
 声に出す度に自分に馴染んでいく感覚が心地良い。親分に言いふらす事は禁止されてしまったけど、その分いっぱい親分に言ってあげよう。
 なあ親分、愛したって。でも愛ってどう意味なん?よく分からないけどきっと良い事なんやろうなあ。だって親分も私と一緒に笑ってくれてるし。
 しかも親分の頬っぺた真っ赤になってる。余程嬉しいのかな?ならもっといっぱい言ってあげよう。そしたらもっと太陽みたいに眩しい笑顔をくれるのかな。
 ほにゃりと顔を綻ばせて私は向き合っていた身体をくるりと動かして親分と同じ方向を向く。親分の腕の中にすっぽりと入り込んだ身体は、彼と違って随分小さく感じた。
 あー、もっと大きくなってちょっとでも良いから親分の顔に近付きたい。そしたら首を痛めずに済むのにな。他の皆だって、背が高過ぎていつも見上げっぱなしだ。
 こうして座っている今も親分の顔は私の頭より上の位置にあって、首をほぼ直角に曲げないとその表情を見る事が出来ないし。早く大人になってないすばでぃーなお姉さんになりたいな。目標はもちろんベルベルだ!
 その為にも牛乳をいっぱい飲まないと!うんうんと大きく首を縦に振って拳をぎゅっと握ると、親分がきょとりと首を傾げていた。

「そんな頷いてどうしたん、?」
「ん、なんでもあらへんよー」
「ええー、何や、親分に秘密なん?教えたってや!」
「あかんもんー!」

 ぷくりと頬を膨らませてそっぽを向いたら、こしょこしょと脇を擽られた。くすぐったい!
 きゃっきゃっとお腹が痛くなるまではしゃいでいたら、あっと言う間に晩御飯の時間になってしまっていた。急いで料理の支度を二人でしていたら、ロヴィもやってきてご飯まだかって怒られた。親分だけ怒られてたけど大丈夫だったかなー?
 まあ、そんなこんなで今日も親分のお家は平和です。おしまい!

BACK HOME NEXT

流石に鼻血噴かせるのは止めといた。

[2010.04.08]