虚ろに開く目の中に映るものは、
薄暗い世界の中、天からはざあざあと音を立てて雨が降り続いていた。
まるで誰かが泣いているように、声を荒げて叫んでいる。
ざあざあ、ざあざあ。誰の声も届かないように、否、拒絶しているように、雨は大地に落ちていった。
我が国が負けた。その知らせを聞いたのは船の中だった。
本国から無理を言って乗せて貰ったそれは、何故か向かっていた場所に入港することが出来ず、私がその地に降り立った時には全てが終わってしまっていた。
アメリカの独立、そして我がイギリス軍の降伏。厳しい表情で船員達の上司はそう告げ、雨が降る港へと消えて行った。
ぼんやりと消えて行く人影を見つめていた私は付き人に連れられて船を降り、幾日か振りに大地を踏みしめる。
ぬかるんだ褐色の土に足を取られそうになりながら空を見上げると、まるで夜のような暗い空が広がっていた。
…ああ、ここが彼がいつも話してくれていた新大陸なのか。
話を聞いた当初はまだ何も無い殺風景な場所だと言っていたけれど、今のこの地は本国に劣るながらも街はしっかりと築かれて人々も根付いている。
その成長の早さは彼も驚くほどらしく、いつも手土産はこの地である弟君の話ばかりだったっけ。
とても嬉しそうに話していた彼の表情は簡単に思い出せるほど胸に染みついていて、頭から離れる事はない。
普段はその特徴的な眉毛を吊り上げて口をへの字に曲がらせているのに、初めてあの顔を見た時は翌日に雪が降るんじゃないかと思ったくらいだ。夏なのに。
けれど最近はめっきり彼と話す機会も無くなってしまい、戦が始まってからはぱたりと連絡も途切れてしまっていた。
連絡が途切れる事は珍しくなくて、戦争が長続きしていると何年も音信不通になる事は当たり前だった。どうせ私はただの小娘なんだから。
貴族の生まれだからと言ってもそれは変わらない。少しだけ一般の人よりお偉いさんと親しいだけで、時々入ってくる彼の安否を確認する事にしか役に立たない立場だった。
だから毎日街中を飛び交う情報を頼りに今はどの辺りに進軍しているだとか、情勢はどうなっているとか、日々入ってくるニュースに耳を傾けていた。
いつもならそれで終わり。戦が終われば彼の方から連絡が入るし、その時になれば私は呑気に「久しぶり」なんて言葉を交わしたりもしていた。
…けど、今回は事情が違っていた。私もその変化には薄々気が付いていて、彼が弟君の話になると険しい表情をするようになってから予感が確信に変わっていた。
ああ、次の相手はその弟君なんだろうな、って。
案内して貰った軍の方にお礼を言って、分厚いドアをノックする。一、二、三、普段ならそこで返事が返ってくる筈なのだが、今日は物音すら返ってこない。
確認するように再度ノックして、今度は耳をすませる。けれどやっぱりいくら待っても部屋の中から声はしなかった。
部屋を出て行った、と言う事は聞いていないから間違いなく中には居るんだと思うけれど…、やっぱり、今は誰とも話したくないんだろうか。
そっとドアノブに触れて部屋番号の書かれたプレートを見上げる。何となくノブを回してみたら、予想に反してがたり、とドアが開く音がした。
「…アーサー?…入るよ」
彼は、アーサーはいつも自分一人で住んでいる筈の家でもチェーンを掛ける人なのに、まさか鍵すら掛けていないなんて思わなくて、私は内心びっくりしながら中を覗いた。
こつりと絨毯を響かせて入った部屋はそれほど広くなく、モノトーンで統一されたシンプルな部屋だった。
明かりはテーブルの上に置いてあるランプだけだったけれど、部屋自体が広くないのでそれだけでも全体が見渡す事が出来た。
薄いレースカーテン越しの空はさっきとほとんど変わっていない。ざあざあ、小さい頃から聞き慣れた音が続いている。
その窓際に備え付けられたベッドの上に、ぽつんと暗い影が落ちている。俯いた表情は分からなかったけれど、最後に見た時と変わらない彼の姿がそこにあった。
「アーサー、…平気?」
「…」
後ろ手でドアを閉めて窺うように彼に問いかける。けれど、返ってきたのは消え入りそうな息使いだけだ。声は聞こえない。顔すら、上げない。
まるで私が入ってきた事すら気付いていないみたいに、アーサーは俯いたままだった。自分でも顔が険しくなっていくのが分かる。これはおかしいを通り越してる、異常だ。
今まで彼のこんな姿を見た事は一度もない。普段から強がって弱みを見せない性格だったけれど、泣いたりもしたり、悲しんだりもしていた。反応を寄越さないなんて事は一度も無かった。
私は早足で彼に近付き、目線を合わせる為にアーサーの前でしゃがみ込む。そして俯いた彼に腕を伸ばすと、暗がりで見え辛かった表情が漸くランプに照らされた。
視界に光が入った事によってぴくり、とほんの少しだけ彼の肩が反応する。ぼんやりと、長い睫毛を揺らして深いエメラルドグリーンが姿を見せる。
ちらちらとその緑が行ったり来たりして、徐々に私に焦点が合っていく。重たい頭がゆっくりと上げられ、硬い質感の髪がぱさりと音を立てると、薄く開けられた口から初めて、声が聞こえた。
「……、…?」
「そう、アーサー、大丈夫…では無いようだね。眠れてる?」
「……なあ…、アルフレッド、は…どこだ?」
「え?」
「…あいつ…雷、怖いみたいだから……おれ、行かないと」
ぼうっと目尻を細くしてそう言ったアーサーは大きく身体を揺らして立ち上がろうとする。けれど、バランスを崩してぱふ、とベッドに逆戻りしてしまった。
私は慌てて彼の身体を支えてやるけれど、アーサーは私の腕をゆるりと払い除けて再び立ち上がる。でもやっぱり上手く立つ事は出来ず、ベッドのスプリングがぎしりと音を立てた。
何度も何度も、覚束ない足で立とうとする姿は見るからに危なっかしい。駄目だよ、と制止の声を私が上げても、アーサーには聞こえてないみたいだった。否、多分、聞こうとしてないんだと思う。
彼の口から呟かれるのは弟の名前ばかりだし、視線も一番近い私にさえ合わせようとしない。私に向いたとしても、何処か別の箇所を見ているようで話も噛み合わない。
弟君はもうアーサーの下には居ないと言うのに、彼の目には未だに弟君の姿が映っているんだろうか?…そんなまさか、現実逃避的な事を彼がするなんて。でも今のこの言動は、この状況は、どう見ても否定できない事実だ。
…それだけ、彼にとって弟の存在は偉大だったと言う事なんだろう。心が壊れる位、大切にしてたんだ。私を見ようとしない位、彼の視界は弟君でいっぱいだったんだ。
それが一瞬にして無くなってしまったんだから、取り乱してしまうのは分からなくもない。私だって育ててくれた両親が突然居なくなってしまったら周りの目も気にせず泣き喚く事だろう。
でも、いつまでもそうしている訳にはいかない。何故なら泣いて悲しんでいる間にも時間は進んで行っているから。人とは心底面倒臭いもので、ずっと泣いている事は自分自身が許しても周りが許してくれないのだ。
やれ仕事がどうだの、後継ぎがどうだの、財産はどうだのと、今まで動き続けていた事柄を急にストップさせるなんて出来ないんだ。関係を築いているからこそ出てくる問題だから、仕方が無いのだけれど。
そしてそれはアーサーにも言える事で、彼は私達と違って国そのものだから、問題の規模も国家並って訳だ。だから失礼ながらも正直に申し上げると、こんな所で絶望していては困る。
我ながら酷な事だとは思っている。そりゃあ、個人的には気が済むまで泣き腫らせば良いと思っているし、友人として心配はもちろんしている。出来る事なら調子が元に戻るまで見守っていたい程だ。
けれど、彼には重要な役割があるから、私の判断でそのままにしておくなんて出来っこない。彼の居ない空白の時間を作る事は、許されないんだ。
「アーサー、ねえ、聞いて」
「…アル、アル、なあ、…どこいったんだ」
「…居ないよ。アーサー、弟君は君から独立したんだよ」
「っ嘘だ!!」
咄嗟に身を引かなかったら、きっと今頃私の首は銃剣によって串刺しになってただろう。
向けられた銃口に震えは全くと言っていい程無く、確実に私の喉元を狙っている。マスケット越しの瞳は明らかな殺気を含んでいた。
アーサーから敵意を向けられた事なんて一度も無かったから、銃を突き付けられた事に私は心底驚いた。でも、今の状況なら銃を向けられてもおかしくは無いんだろう。
それは何となく気付いていた。だからこそ、彼には真実と現実を認めて貰わなくちゃならない。出口の無い幻を終わらせなければならない。
例えアーサーに敵と認識されたとしても、今私に課せられた役目はこれなのだから。だから、お願い。
「アーサー、銃を下ろして」
「いやだ、お前に何が分かる」
「君が弟君をそばに置いておきたい気持ちは分かるよ。でもそれはもう終わった事だ、彼はそれを拒んだんだから君がどう言ってももう無駄だよ」
「うるさい、うるさいうるさいうるさい」
「ねえアーサー、そうやって否定し続けても事実は変わらないんだよ」
黙れ、と彼の口が動いたのが見えた。けれど声にはなっていなくて、アーサーは血が滲む位に唇を噛んだ。
アーサーも気付いているんだ、弟君が自分から離れて行った事が何を意味しているのかを。けれどやっぱりその事実を認めたく無くて、でも認めなくちゃいけないとも思っていて、心がぐちゃぐちゃになってるんだ。
正反対の意見を一度に飲み込む事は不可能だ。だから、彼が行きついた先は現実逃避。何もかも放り出して、幻想に浸る行為に走ったんだ。
壊れた心にはそれしか頼るものがなかったんだ。甘美な誘惑に引き摺りこまれて、自らの都合の良いように改変される世界はさぞ良いんだろうね。
でもそんな幻想を私は許さない。君が元通りになるまで何度も何度も、壊してあげるから。君が国だと言う事を、思い知らせてあげるから。
「だからね、アーサー。逃避するのは簡単な事だけど、認めないのは我儘だと思うよ。今の君には前を向いて歩く必要があるんだから」
「…おまえに、なにが」
「うん、私には君の気持ちなんて上辺だけしか分からないよ。でもそれは君だってそう、私の気持ちも君には分からないでしょ?」
「…」
引き金を引かれる音は、しなかった。
代わりにガシャン、とマスケットが床に叩きつけられる音が部屋に響いて、アーサーは崩れるように両手で顔を覆い隠す。そして聞こえてくるのは声を押し殺した嗚咽だった。
流れる雫は外と同じようにいっぱい落ちていって、深紅の軍服を濡らしていく。ざあざあ、鳴り止まない雨の様に、身体中を水分を出しきってしまう位に、次から次へと手の隙間から溢れ出していく。
他人の涙を見ても良い気分になる人なんてほとんど居ないだろう。私だってそう、彼の涙は見ていて痛々しい。
けれどぼんやりと私は彼が流す涙を見つめて、そっと震える金の髪を撫でた。
(…この雨と一緒に、全部洗い流せればいいのに。彼の感情も、私の気持ちも、もやもやしたもの全部、綺麗さっぱり無くなってしまえば良いのに)
ゆるりとアーサーが顔を上げると、溢れた涙が頬を伝って落ちて行く。
ランプに照らされた彼の瞳に、私は映っていなかった。
まるで誰かが泣いているように、声を荒げて叫んでいる。
ざあざあ、ざあざあ。誰の声も届かないように、否、拒絶しているように、雨は大地に落ちていった。
我が国が負けた。その知らせを聞いたのは船の中だった。
本国から無理を言って乗せて貰ったそれは、何故か向かっていた場所に入港することが出来ず、私がその地に降り立った時には全てが終わってしまっていた。
アメリカの独立、そして我がイギリス軍の降伏。厳しい表情で船員達の上司はそう告げ、雨が降る港へと消えて行った。
ぼんやりと消えて行く人影を見つめていた私は付き人に連れられて船を降り、幾日か振りに大地を踏みしめる。
ぬかるんだ褐色の土に足を取られそうになりながら空を見上げると、まるで夜のような暗い空が広がっていた。
…ああ、ここが彼がいつも話してくれていた新大陸なのか。
話を聞いた当初はまだ何も無い殺風景な場所だと言っていたけれど、今のこの地は本国に劣るながらも街はしっかりと築かれて人々も根付いている。
その成長の早さは彼も驚くほどらしく、いつも手土産はこの地である弟君の話ばかりだったっけ。
とても嬉しそうに話していた彼の表情は簡単に思い出せるほど胸に染みついていて、頭から離れる事はない。
普段はその特徴的な眉毛を吊り上げて口をへの字に曲がらせているのに、初めてあの顔を見た時は翌日に雪が降るんじゃないかと思ったくらいだ。夏なのに。
けれど最近はめっきり彼と話す機会も無くなってしまい、戦が始まってからはぱたりと連絡も途切れてしまっていた。
連絡が途切れる事は珍しくなくて、戦争が長続きしていると何年も音信不通になる事は当たり前だった。どうせ私はただの小娘なんだから。
貴族の生まれだからと言ってもそれは変わらない。少しだけ一般の人よりお偉いさんと親しいだけで、時々入ってくる彼の安否を確認する事にしか役に立たない立場だった。
だから毎日街中を飛び交う情報を頼りに今はどの辺りに進軍しているだとか、情勢はどうなっているとか、日々入ってくるニュースに耳を傾けていた。
いつもならそれで終わり。戦が終われば彼の方から連絡が入るし、その時になれば私は呑気に「久しぶり」なんて言葉を交わしたりもしていた。
…けど、今回は事情が違っていた。私もその変化には薄々気が付いていて、彼が弟君の話になると険しい表情をするようになってから予感が確信に変わっていた。
ああ、次の相手はその弟君なんだろうな、って。
案内して貰った軍の方にお礼を言って、分厚いドアをノックする。一、二、三、普段ならそこで返事が返ってくる筈なのだが、今日は物音すら返ってこない。
確認するように再度ノックして、今度は耳をすませる。けれどやっぱりいくら待っても部屋の中から声はしなかった。
部屋を出て行った、と言う事は聞いていないから間違いなく中には居るんだと思うけれど…、やっぱり、今は誰とも話したくないんだろうか。
そっとドアノブに触れて部屋番号の書かれたプレートを見上げる。何となくノブを回してみたら、予想に反してがたり、とドアが開く音がした。
「…アーサー?…入るよ」
彼は、アーサーはいつも自分一人で住んでいる筈の家でもチェーンを掛ける人なのに、まさか鍵すら掛けていないなんて思わなくて、私は内心びっくりしながら中を覗いた。
こつりと絨毯を響かせて入った部屋はそれほど広くなく、モノトーンで統一されたシンプルな部屋だった。
明かりはテーブルの上に置いてあるランプだけだったけれど、部屋自体が広くないのでそれだけでも全体が見渡す事が出来た。
薄いレースカーテン越しの空はさっきとほとんど変わっていない。ざあざあ、小さい頃から聞き慣れた音が続いている。
その窓際に備え付けられたベッドの上に、ぽつんと暗い影が落ちている。俯いた表情は分からなかったけれど、最後に見た時と変わらない彼の姿がそこにあった。
「アーサー、…平気?」
「…」
後ろ手でドアを閉めて窺うように彼に問いかける。けれど、返ってきたのは消え入りそうな息使いだけだ。声は聞こえない。顔すら、上げない。
まるで私が入ってきた事すら気付いていないみたいに、アーサーは俯いたままだった。自分でも顔が険しくなっていくのが分かる。これはおかしいを通り越してる、異常だ。
今まで彼のこんな姿を見た事は一度もない。普段から強がって弱みを見せない性格だったけれど、泣いたりもしたり、悲しんだりもしていた。反応を寄越さないなんて事は一度も無かった。
私は早足で彼に近付き、目線を合わせる為にアーサーの前でしゃがみ込む。そして俯いた彼に腕を伸ばすと、暗がりで見え辛かった表情が漸くランプに照らされた。
視界に光が入った事によってぴくり、とほんの少しだけ彼の肩が反応する。ぼんやりと、長い睫毛を揺らして深いエメラルドグリーンが姿を見せる。
ちらちらとその緑が行ったり来たりして、徐々に私に焦点が合っていく。重たい頭がゆっくりと上げられ、硬い質感の髪がぱさりと音を立てると、薄く開けられた口から初めて、声が聞こえた。
「……、…?」
「そう、アーサー、大丈夫…では無いようだね。眠れてる?」
「……なあ…、アルフレッド、は…どこだ?」
「え?」
「…あいつ…雷、怖いみたいだから……おれ、行かないと」
ぼうっと目尻を細くしてそう言ったアーサーは大きく身体を揺らして立ち上がろうとする。けれど、バランスを崩してぱふ、とベッドに逆戻りしてしまった。
私は慌てて彼の身体を支えてやるけれど、アーサーは私の腕をゆるりと払い除けて再び立ち上がる。でもやっぱり上手く立つ事は出来ず、ベッドのスプリングがぎしりと音を立てた。
何度も何度も、覚束ない足で立とうとする姿は見るからに危なっかしい。駄目だよ、と制止の声を私が上げても、アーサーには聞こえてないみたいだった。否、多分、聞こうとしてないんだと思う。
彼の口から呟かれるのは弟の名前ばかりだし、視線も一番近い私にさえ合わせようとしない。私に向いたとしても、何処か別の箇所を見ているようで話も噛み合わない。
弟君はもうアーサーの下には居ないと言うのに、彼の目には未だに弟君の姿が映っているんだろうか?…そんなまさか、現実逃避的な事を彼がするなんて。でも今のこの言動は、この状況は、どう見ても否定できない事実だ。
…それだけ、彼にとって弟の存在は偉大だったと言う事なんだろう。心が壊れる位、大切にしてたんだ。私を見ようとしない位、彼の視界は弟君でいっぱいだったんだ。
それが一瞬にして無くなってしまったんだから、取り乱してしまうのは分からなくもない。私だって育ててくれた両親が突然居なくなってしまったら周りの目も気にせず泣き喚く事だろう。
でも、いつまでもそうしている訳にはいかない。何故なら泣いて悲しんでいる間にも時間は進んで行っているから。人とは心底面倒臭いもので、ずっと泣いている事は自分自身が許しても周りが許してくれないのだ。
やれ仕事がどうだの、後継ぎがどうだの、財産はどうだのと、今まで動き続けていた事柄を急にストップさせるなんて出来ないんだ。関係を築いているからこそ出てくる問題だから、仕方が無いのだけれど。
そしてそれはアーサーにも言える事で、彼は私達と違って国そのものだから、問題の規模も国家並って訳だ。だから失礼ながらも正直に申し上げると、こんな所で絶望していては困る。
我ながら酷な事だとは思っている。そりゃあ、個人的には気が済むまで泣き腫らせば良いと思っているし、友人として心配はもちろんしている。出来る事なら調子が元に戻るまで見守っていたい程だ。
けれど、彼には重要な役割があるから、私の判断でそのままにしておくなんて出来っこない。彼の居ない空白の時間を作る事は、許されないんだ。
「アーサー、ねえ、聞いて」
「…アル、アル、なあ、…どこいったんだ」
「…居ないよ。アーサー、弟君は君から独立したんだよ」
「っ嘘だ!!」
咄嗟に身を引かなかったら、きっと今頃私の首は銃剣によって串刺しになってただろう。
向けられた銃口に震えは全くと言っていい程無く、確実に私の喉元を狙っている。マスケット越しの瞳は明らかな殺気を含んでいた。
アーサーから敵意を向けられた事なんて一度も無かったから、銃を突き付けられた事に私は心底驚いた。でも、今の状況なら銃を向けられてもおかしくは無いんだろう。
それは何となく気付いていた。だからこそ、彼には真実と現実を認めて貰わなくちゃならない。出口の無い幻を終わらせなければならない。
例えアーサーに敵と認識されたとしても、今私に課せられた役目はこれなのだから。だから、お願い。
「アーサー、銃を下ろして」
「いやだ、お前に何が分かる」
「君が弟君をそばに置いておきたい気持ちは分かるよ。でもそれはもう終わった事だ、彼はそれを拒んだんだから君がどう言ってももう無駄だよ」
「うるさい、うるさいうるさいうるさい」
「ねえアーサー、そうやって否定し続けても事実は変わらないんだよ」
黙れ、と彼の口が動いたのが見えた。けれど声にはなっていなくて、アーサーは血が滲む位に唇を噛んだ。
アーサーも気付いているんだ、弟君が自分から離れて行った事が何を意味しているのかを。けれどやっぱりその事実を認めたく無くて、でも認めなくちゃいけないとも思っていて、心がぐちゃぐちゃになってるんだ。
正反対の意見を一度に飲み込む事は不可能だ。だから、彼が行きついた先は現実逃避。何もかも放り出して、幻想に浸る行為に走ったんだ。
壊れた心にはそれしか頼るものがなかったんだ。甘美な誘惑に引き摺りこまれて、自らの都合の良いように改変される世界はさぞ良いんだろうね。
でもそんな幻想を私は許さない。君が元通りになるまで何度も何度も、壊してあげるから。君が国だと言う事を、思い知らせてあげるから。
「だからね、アーサー。逃避するのは簡単な事だけど、認めないのは我儘だと思うよ。今の君には前を向いて歩く必要があるんだから」
「…おまえに、なにが」
「うん、私には君の気持ちなんて上辺だけしか分からないよ。でもそれは君だってそう、私の気持ちも君には分からないでしょ?」
「…」
引き金を引かれる音は、しなかった。
代わりにガシャン、とマスケットが床に叩きつけられる音が部屋に響いて、アーサーは崩れるように両手で顔を覆い隠す。そして聞こえてくるのは声を押し殺した嗚咽だった。
流れる雫は外と同じようにいっぱい落ちていって、深紅の軍服を濡らしていく。ざあざあ、鳴り止まない雨の様に、身体中を水分を出しきってしまう位に、次から次へと手の隙間から溢れ出していく。
他人の涙を見ても良い気分になる人なんてほとんど居ないだろう。私だってそう、彼の涙は見ていて痛々しい。
けれどぼんやりと私は彼が流す涙を見つめて、そっと震える金の髪を撫でた。
(…この雨と一緒に、全部洗い流せればいいのに。彼の感情も、私の気持ちも、もやもやしたもの全部、綺麗さっぱり無くなってしまえば良いのに)
ゆるりとアーサーが顔を上げると、溢れた涙が頬を伝って落ちて行く。
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[2010.07.21]
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