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 奴が笑って「ただいま」と言う姿が嫌いだった。
 見上げた奴の頬には赤黒く変色した線や何かを強引に拭った跡が幾つもあって、身体のあちこちはぼろぼろだった。
 擦り傷や切り傷が沢山あるのに、奴は私に向き直って言うんだ。ただいま、って。
 纏っている匂いは噎せ返る程の血の香りなのに、ギャップが激し過ぎて私はいつも眉を顰めていた。
 そして今日もまた、奴は笑う。嫌な程眩しい笑顔で。

「どうしたん、。元気ないなあ」
「いつもの事だから放っておいて」
「そないな顔せんと、可愛いんやからもっと笑ったらええのに。ほら、親分と一緒に」
「…」

 ふそそそ、とよく分からないおまじないと共に投げ掛けられた視線に、ぷいっと顔を背ける。
 あからさまな拒絶をする私に対して、こいつは嫌な顔一つせずにまたにこりと笑う。同じ台詞と共にもう一度。
 けれど何度もそんなおまじないをしたって、私は笑わない。面白くも無いし、元気も出ないし。
 放って置いてと言った筈なのにちょっかい出してくるなんて、こいつには私の声が聞こえてないんだろうか?
 …いつもの反応を見てると、聞こえてないんだろうな。はあ、どうして私はこいつに世話されてるんだろう。

「ねえ親分」
「ん?どうしたん、笑う気になった?」
「違う。私、放って置いてって言ったよね」
「そやっけ」
「…。じゃあ今言ったから、私に構わないで」

 きょとり、と疑問符を浮かべて首を傾げる奴にそう言い放って、私はくるりと踵を返した。向かう先は自室だ。
 リビングに出てきた事がそもそもの間違いだった。なんでこいつが居る時にリビングに来たんだ、私。
 せめてロヴィも一緒に居ればよかったのに、生憎とあの子は現在何処かでシエスタ中だ。
 私もこの時間はシエスタしてた筈なのに、今日は何故か目が覚めてしまって気晴らしに飲み物でも、と思ってリビングに来たのに。
 一番出くわしたくなかった人に出会ってしまって、気分は一気に急降下だ。ああもう、寝たい。

「ちょいちょい、待ちや」
「やだ」
ー、親分の言う事は絶対なんやでー」
「いーやーだー」

 部屋を出ようとした矢先に腕を掴まれて、身動きが出来なくなる。掴まれた手を解こうと奴の方を睨んだら、逆に睨み返されて顔が引き攣った。
 たまに真面目な顔をされると、慣れていない私は一瞬どう反応していいのか困ってしまう。大体の場合は頭より身体の方が先に動くから怯んでしまうけれど。
 今だって普段は見せない顔で睨み付けられたから、怒鳴ろうとした声が喉につっかえて変な声が出そうになったじゃないか。
 何となく目を合わせるのが嫌で視線を下に向ける。腕はまだ、奴の手の中にすっぽり収まったままだった。

「…用があるなら早くして、痛い」
「あ、ああ、ごめん。あんな、今日またちょっとしたら仕事やねん。だからロヴィーノの事頼もうと思って」
「え…、これから?さっき帰ってきたばっかりじゃない」
「そうやねん、上司がうるさくってなあ。また長い事家空けるかもしれんから、その間よろしくな」
「は?ちょ…、ちょっと待ってよ、ロヴィに挨拶しないつもりなの?」

 用件を伝えたからか、私の拘束を解いた奴は近くに引っ掛けてあった外套を掴んで支度をし始めてしまう。
 行き成りの事で呆気に取られてしまった私はそのままの姿勢で固まってしまっていて、解かれた腕がどうしようか、と彷徨ったままだった。
 …また長い事家を空けるなんてこいつは本気で言っているんだろうか?だったら冗談じゃない。なんで私がまたこの家を守らなくちゃいけないんだ。
 家を守るのは主人の役目なのに、その主人が家を放り出すなんて。しかも今日帰って来たばかりなのに、またなんて、ふざけるなとしか言いようがない。
 かちん、と頭に来た私は咄嗟に奴の外套に掴み掛った。硬い布地が爪に引っ掛かってちょっと痛いけど、この際どうでも良い。

「トーニョ!貴方が居ない間私達がどんな思いをしてたか分かってるの?ロヴィの事も考えてあげてよ!」
…?」
「鈍感にも程があり過ぎるわ。もうやだ、私この家出て行く」
「な、何言うてんの?ちょっと居らん時間が増えるだけやってのに」
「それが駄目だって言うの!ちょっと位休んでも良いじゃない、人がどれだけ心配したと」

 思っているんだ、と続けようとして、はっと息を飲む。やばい、今のは完璧に失言だ。なに口走ってるんだ、私。
 さっきとは逆の立ち位置で途中まで捲し立てたのはよかったけど、最後のは駄目だ。…いや、最初から思わず名前で呼んでしまった事も駄目、だったと、思う。
 頭に血が上ると直ぐこんな風に失言してしまうのが私の悪い癖だ。直そうと思っても近くに居る奴がこう言った感じのどうしようもない鈍感だから冷静を保つだけで精一杯。
 でも今日は流石に我慢の限界でつい要らない事まで言ってしまって、不自然に言い掛けた言葉をストップさせてしまった。これではいくら鈍感な奴でもバレバレだ。
 現にほら、目の前のこいつは呆気に取られて目を丸くしてる。普段は刺々しい物言いをしていた奴が変な事を言ったから、余計にびっくりしてるんだろう。
 もうやだ、恥ずかしい。誰かこの場から私を消し去って下さい。穴があったら入りたい。
 いっその事ぎゅう、と握りしめる外套の中に隠れてしまおうかと考えてみたけど、それを実行したら本当の意味で後戻りが出来なくなりそうなので止めておいた。

?なあ、
「…聞こえない、私は何も聞こえない」
「俺の事心配してくれてんの?なあ、なー?」

 ああもう、ほら、すっかり調子に乗ってしまっているじゃないか。鈍感親分のくせに、ちょっと位気を使ってくれたって良いじゃない。
 くしゃりと頭を掻き回されてもう言い訳をしても無駄なんだと悟る。でもやっぱりこいつの前で素直になるのは嫌なので、眉間にくっきりと皺を寄せて睨みつけた。
 それなのにやっぱりこいつはケロッとした様子で頬を緩ませて笑う。ほにゃり、と太陽みたいな笑顔。あの、笑顔。

「…止めて」
「んー?頭撫でるの嫌やった?それやったらハグする?」
「違う。笑うのが嫌なの。だから止めて」
「ええー、そないな事言われても…笑わんかったら楽しくないで?だからも笑お?」
「私は嫌なの!」

 叫んだ途端、また少しだけ後悔した。駄目だ、こんなのじゃあ全然伝わってない。私が言いたいのはもっと別の事なのに、これじゃあただの我儘だ。
 …否、理由を言ったって結局は私の我儘なんだろう。でも一度出てしまったものは止まらない。収束するのを他人事のように待つしかないんだ。自分の事なのに。
 だってしょうがないじゃない、収めようとしたって自分の意思じゃ止まらないんだから。ああ、また後悔する事が増えた。

「…?」
「嫌いなの、トーニョがそうやってずっと笑ってるのが!帰ってきた時だって、怪我してるのに笑って、て!いつもぼろぼろになって帰ってくるのに、ずっとへらへらして、…!」
「それはやロヴィーノを心配させへんようにって」
「この鈍感おやぶん!逆に心配するに決まってるでしょ!わかってよ、ばか…っ」

 ぺしぺしと弱い力で奴の身体を叩くけど、所詮小娘の力じゃ大の男はびくともしない。それでも奴に理解してもらいたくて私は我武者羅に腕を振るった。
 ほろりと流れ出てくるのが何なのか理解したくない。でも視界はどんどんぼやけていって、鼻がつんとして来れば嫌でも理解せざるを得ない。
 ここに来てから一度もこいつの前では見せなかった表情、弱さをまじまじと見せつけているようで嫌だったのに、今になって溢れ出てしまうなんて情けない。部屋に戻ったら反省会を開かないと。
 握りしめた拳は爪が白くなっていて、布が掠れた部分は薄っすらと赤くなってしまっていた。けれど叩く手を止めようとはしなかった。だって、この手を動かすのを止めてしまったら私、どうすればいいの。
 感情に流されて勢いでやってしまった所為で後の事をさっぱり考えていなかった。部屋に戻った後の事を考えている暇があったら部屋に戻るまでの事を考えろって話よね。ええ、本当に。
 さてどうしようか、といつの間にかすり替わってしまった脳内会議に没頭していたら、奴を叩いていた腕をまた掴まれてバランスを崩しそうになった。けど仰け反りそうになった身体は私とは違うがっしりとした腕に支えられて、倒れる、と言う事は免れた。

「なんや、こんなに大切に想われてるなんて知らんかったわ…親分幸せやんなあ」
「わ、分かったならそんな風に、笑わないでよ!あと離して!」
「いやや。流石にのお願いでもそれは出来ひんわ」
「はーなーしーてー!」
「あかんで、ちゃんと手届く距離に置いとかんと守られへんからなー。だから出て行くとか言わんといて、な?」
「笑うの止めたら考える!」

 じゃあずっとこのままやんなあ、と幸せそうに笑い続ける奴の顔を無性に殴りたくなったけど止めておいた。だって、例え殴ったとしてもへらへら笑ってそうじゃない、この人は。
 …断じて怪我をする姿を見たくないとかじゃないから。自分が傷付けるなんてしたくないとか、そんなのじゃないから。違うから、違うからにやにやしないでよ!

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親分はどんなに怪我しても子分の前では笑ってそう。

[2010.06.21]