愛し愛され、我が祖国
いつもは特徴的な六弦眉を吊り上げて声を荒げながらフランシスさんと言い争いをしてると言うのに。
どうして今日に限っていつもの威勢が彼方に消えてしまっているのでしょうか。どうしてこの人は静かに涙しているのでしょうか。
「祖国、泣かないで下さい。イングランド、アーサーさん」
「…ないて、ない」
口を噤んではいるけれど、小さな隙間からは嗚咽が漏れてしまっている。
ぽたぽたと頬を伝うのは紛れも無い涙の雫。これで泣いてないと言われても、説得力がまるで無い。
きっと祖国は認めたくないのだろう。私のような小娘に泣いている姿など見せたくないのだろう。
でももう見てしまった。貴方が泣いている姿を。いつもは毅然とした姿で私に接してくれる貴方の泣き顔を。
「何かあったのですか?何処か痛い所でも?」
「…いい、俺に、構うな」
「それは出来ません。貴方は私の愛する国なのですから。貴方が悲しいと我等国民も悲しいのです。どうか、泣き止んで」
「…」
ロンドンの街並みは灰色に支配されて、しとしとと雨が降り続いている。今日は朝からそんな天気。
国である彼が涙を流すと、この国にも涙の雨が降る。それを思うと彼は朝から泣いていたんだろう。
どうして、と聞いても、彼は答えてくれない。何故かは聞かなくても分かる。彼はいつもそうだからだ。
一人で抱え込んで、周りの誰にも想いを打ち明けず、物陰に隠れるようにして涙を流す。
私達人間よりも想像がつかない位に長い時を過ごしてきた我が国、イングランド、アーサーさん。貴方はいつから甘える事をしなくなったのですか?
私は貴方の事を断片的にしか知り得ていません。だから貴方がどんな風に生きてきたのかも私には分からない。
歴史の欠片を掻い摘んだとしても、それは国としての貴方の記憶。アーサーさん個人の記憶とはまた違うもの。
だから私はアーサーさんの人としての記憶はここ最近のものしか知らない。隣国のフランシスさんとは出会えば睨み合い、船に乗って色んな所を旅したり。
最近新しい大陸に弟さんを見つけてとても嬉しそうにしていた筈なのに、どうして今日は悲しそうに泣いているのですか?
「話したくなければ良いのです。でもずっと泣いていたらフランシスさんに怒られてしまいますよ」
「髭…奴には言われたくない…」
「ええ、そうですね。だからほら、泣き止んでください」
テーブルの上に置いてあった水差しで少しだけ濡らしたハンカチをアーサーさんの目元や頬に添えて水分を拭き取っていく。
彼はくしゃりと顔を歪めていたけれど、嫌がる仕草は見せずに大人しくしていた。朝から泣いていたから気にはなったけれど、やはり目元が少し腫れてしまっている。
赤くなったそこを親指の腹でそっと撫でて、目に掛かりそうな薄い金髪を掻き分ける。
目を細めて私の手付きに身を委ねていた彼は小さく「Thanks」と呟いた。その瞳はまだ潤んでいたけれど、涙を流す事は無かった。
「お前、良い母親になるぞ」
「祖国にそう言って貰えると嬉しいです。そんなに良かったですか?」
「…ああ、手付きが優しい」
「ふふ、やっぱり私に対しては紳士な対応なんですね」
くすくすと笑うと、アーサーさんは私から視線を逸らしてそっぽを向く。頬が赤いのは泣いた所為では無いんだろうな。
私よりも長い年月を生きている筈なのに何処か子供っぽさを感じられるその仕草に可愛らしいと思いながら、掻き分けた金髪を耳の後ろへと持っていく。
潮風に曝されて痛んでしまっているそれはしっかりとした髪質でちょっとの刺激ではカールしない触り心地だった。
私の髪質とは真逆な髪に少しだけ羨ましいと思って数本引っ張ってみると、案の定太い眉毛をぴくりと動かして痛そうな顔をしていた。
「何すんだよ」
「ストレートの髪が羨ましいと思っただけですよ。私のは色んな所がくるくるしてますから」
「俺のは痛んでるだけだろ」
「なら私の髪も潮風に当たらせれば真っ直ぐになります?」
ぷく、と頬を膨らませて唸ってみたら、軽く頭を小突かれた。ちょっと痛い。
そしてよくフランシスさんに言っている「ばか」を呟いて目を細める。満面では無いけど、小さな笑み。
良かった、笑ってくれた。ほっと胸を撫で下ろして私も少しだけ口元を緩ませる。
相変わらず窓の外は雨が降っていたけれど、薄暗い雲の隙間からは点々と白い光が差し込んでいた。これなら雨が止むのもそう遠くない。
日差しが戻ったロンドンの空を想像して心の中でもう一つ、良かったと呟いて私はアーサーさんに視線を向ける。
彼も私と同じように窓の外を見つめていて、ずっと目を細めて何処か遠くを見ているようだった。あの方角には海しかない筈だけど、何処を見ているのだろう。
ぽつりと呟かれた言葉は私には分からない単語で、誰かの名前らしい事しか理解出来なかった。もしかしたら新しい大陸に居たと言う弟さんの事かもしれない。
きらきら光る翡翠のような緑色の瞳には海の向こうに居るであろう弟さんが映っているのだろうか。その表情は今まで見たことがない、よく分からない表情だった。笑っているけれど、寂しそうで、不安そう。
「アーサーさん?」
「…あいつには、俺が得る事が出来なかったものを与えたいと思うんだ。幸せにしてやりたいんだ」
「あいつって…弟さん、ですか?」
窓の外を見ながらアーサーさんは頷く。すっかり雨は止んで、雲も大分薄れてきているみたいだった。
薄暗かった部屋は少しずつ明るくなってきて、窓から入り込んでくる光が眩しくて私は数秒目を瞑った。
再び目を開けると、アーサーさんは窓から自分の掌へと視線を移動させて俯いていた。角張った細い腕からはあのスペインの無敵艦隊を撃破させる程の力など微塵にも感じられない。
その所為でこの人はずっと手袋を付けていた筈だけれど、今はその愛用の手袋もテーブルの上に置かれている。
「でも俺は愛し方を知らない。愛された事がない俺にあいつを愛することなんて出来ない。やり方がわからないんだ」
「そんな事無いですよ。私達国民は貴方を愛している。貴方は愛されてるんです」
「違う、それは国と国民との間に生まれる愛だ、俺は国としてじゃなくて、あいつを弟として愛したい。なのに、俺は、俺の、兄さん達からは、」
「…大丈夫、大丈夫です。イングランド、我が祖国。貴方は知っている筈です、貴方の国民はどうやって人を愛しているかを。何回も何回も見て来たでしょう?最初は真似るだけでも良いのです。そこから貴方が、貴方だけが出来る愛し方で弟さんを愛してあげてください」
また顔を歪める彼に何度も語りかける。大丈夫、大丈夫。貴方は愛されています。少なくとも私は貴方を愛しています。我が祖国、イングランド。
貴方は国と国民との間に生まれる愛だと言うけれど、それも立派な一つの愛。家族に対して抱く愛とは名前が違っていたとしても、私は貴方がこの国そのものだと知った時から家族へ対する愛情と同じ想いでこの国を愛してきたつもりです。
その想いは貴方に届いていないかもしれない。でも、貴方は幾度となく我が国で繰り返してきた生と死を見て来た筈です。その中には貴方が望む愛情もあるでしょう?だから大丈夫、大丈夫。
「祖国、どうか安心してください。貴方は愛する事が出来る人です」
「…」
「なんでしょう、アーサーさん」
薄く開かれた口から消え入りそうな言葉が紡がれる。集中していないと聞きとれない様な、そんな小声。
そっと彼の手を両手で包み込んで、冷え切っている手に熱を与える。私よりも冷たい、彼の体温。時にそれは心地良い温度だったりするけれど、今は私の体温の方が良い筈だろう。雨が降って気温が低くなっているのに、これ以上体温が下がってしまえば風邪を引いてしまうから。
首を傾げて言葉を催促するが、アーサーさんは少しだけ言い淀むように私から目を逸らした。同時に揺れる髪から僅かに潮の香りがして、鼻を擽った。
その香りに誘われて、また彼の髪を撫でる。今度は引っ張らないように、ゆっくり優しく。
「…お前は、幸せか?」
「ええ、幸せですよ。私は貴方であるこの国に生まれて、幸せです」
「……そうか」
だからどうか、我が祖国、愛されていないなんて悲しい事を言わないで。与えられる愛をどうか、受け取って。
頭を撫でている手はそのままに、反対の手を彼の背中に回してぽんぽん、と一定のリズムで軽く撫でる。
そして目を伏せ、紡ぐのは子供の頃に母から教えて貰ったナーサリーライム。昔から歌われているそれは彼にとっても慣れ親しんだ唄だろう。
耳障りにならない程度の音量でゆったりとした曲を時間を掛けて歌っていく。
大丈夫、大丈夫、イングランド、我が祖国。私は貴方を、この国を愛しています。貴方が私達国民を愛してくれている事も知っています。
貴方は無意識にそうしているのかもしれないけれど、それで良いのです。貴方は愛を知っているのです。だから大丈夫。
「幸せですよ、我が祖国。だからどうか、泣かないで」
「…泣いてねえよ馬鹿…」
「ええ、今はそう言う事にしておきましょう、祖国」
ロンドンの空はまだ、すっきりと晴れてはいなかった。
どうして今日に限っていつもの威勢が彼方に消えてしまっているのでしょうか。どうしてこの人は静かに涙しているのでしょうか。
「祖国、泣かないで下さい。イングランド、アーサーさん」
「…ないて、ない」
口を噤んではいるけれど、小さな隙間からは嗚咽が漏れてしまっている。
ぽたぽたと頬を伝うのは紛れも無い涙の雫。これで泣いてないと言われても、説得力がまるで無い。
きっと祖国は認めたくないのだろう。私のような小娘に泣いている姿など見せたくないのだろう。
でももう見てしまった。貴方が泣いている姿を。いつもは毅然とした姿で私に接してくれる貴方の泣き顔を。
「何かあったのですか?何処か痛い所でも?」
「…いい、俺に、構うな」
「それは出来ません。貴方は私の愛する国なのですから。貴方が悲しいと我等国民も悲しいのです。どうか、泣き止んで」
「…」
ロンドンの街並みは灰色に支配されて、しとしとと雨が降り続いている。今日は朝からそんな天気。
国である彼が涙を流すと、この国にも涙の雨が降る。それを思うと彼は朝から泣いていたんだろう。
どうして、と聞いても、彼は答えてくれない。何故かは聞かなくても分かる。彼はいつもそうだからだ。
一人で抱え込んで、周りの誰にも想いを打ち明けず、物陰に隠れるようにして涙を流す。
私達人間よりも想像がつかない位に長い時を過ごしてきた我が国、イングランド、アーサーさん。貴方はいつから甘える事をしなくなったのですか?
私は貴方の事を断片的にしか知り得ていません。だから貴方がどんな風に生きてきたのかも私には分からない。
歴史の欠片を掻い摘んだとしても、それは国としての貴方の記憶。アーサーさん個人の記憶とはまた違うもの。
だから私はアーサーさんの人としての記憶はここ最近のものしか知らない。隣国のフランシスさんとは出会えば睨み合い、船に乗って色んな所を旅したり。
最近新しい大陸に弟さんを見つけてとても嬉しそうにしていた筈なのに、どうして今日は悲しそうに泣いているのですか?
「話したくなければ良いのです。でもずっと泣いていたらフランシスさんに怒られてしまいますよ」
「髭…奴には言われたくない…」
「ええ、そうですね。だからほら、泣き止んでください」
テーブルの上に置いてあった水差しで少しだけ濡らしたハンカチをアーサーさんの目元や頬に添えて水分を拭き取っていく。
彼はくしゃりと顔を歪めていたけれど、嫌がる仕草は見せずに大人しくしていた。朝から泣いていたから気にはなったけれど、やはり目元が少し腫れてしまっている。
赤くなったそこを親指の腹でそっと撫でて、目に掛かりそうな薄い金髪を掻き分ける。
目を細めて私の手付きに身を委ねていた彼は小さく「Thanks」と呟いた。その瞳はまだ潤んでいたけれど、涙を流す事は無かった。
「お前、良い母親になるぞ」
「祖国にそう言って貰えると嬉しいです。そんなに良かったですか?」
「…ああ、手付きが優しい」
「ふふ、やっぱり私に対しては紳士な対応なんですね」
くすくすと笑うと、アーサーさんは私から視線を逸らしてそっぽを向く。頬が赤いのは泣いた所為では無いんだろうな。
私よりも長い年月を生きている筈なのに何処か子供っぽさを感じられるその仕草に可愛らしいと思いながら、掻き分けた金髪を耳の後ろへと持っていく。
潮風に曝されて痛んでしまっているそれはしっかりとした髪質でちょっとの刺激ではカールしない触り心地だった。
私の髪質とは真逆な髪に少しだけ羨ましいと思って数本引っ張ってみると、案の定太い眉毛をぴくりと動かして痛そうな顔をしていた。
「何すんだよ」
「ストレートの髪が羨ましいと思っただけですよ。私のは色んな所がくるくるしてますから」
「俺のは痛んでるだけだろ」
「なら私の髪も潮風に当たらせれば真っ直ぐになります?」
ぷく、と頬を膨らませて唸ってみたら、軽く頭を小突かれた。ちょっと痛い。
そしてよくフランシスさんに言っている「ばか」を呟いて目を細める。満面では無いけど、小さな笑み。
良かった、笑ってくれた。ほっと胸を撫で下ろして私も少しだけ口元を緩ませる。
相変わらず窓の外は雨が降っていたけれど、薄暗い雲の隙間からは点々と白い光が差し込んでいた。これなら雨が止むのもそう遠くない。
日差しが戻ったロンドンの空を想像して心の中でもう一つ、良かったと呟いて私はアーサーさんに視線を向ける。
彼も私と同じように窓の外を見つめていて、ずっと目を細めて何処か遠くを見ているようだった。あの方角には海しかない筈だけど、何処を見ているのだろう。
ぽつりと呟かれた言葉は私には分からない単語で、誰かの名前らしい事しか理解出来なかった。もしかしたら新しい大陸に居たと言う弟さんの事かもしれない。
きらきら光る翡翠のような緑色の瞳には海の向こうに居るであろう弟さんが映っているのだろうか。その表情は今まで見たことがない、よく分からない表情だった。笑っているけれど、寂しそうで、不安そう。
「アーサーさん?」
「…あいつには、俺が得る事が出来なかったものを与えたいと思うんだ。幸せにしてやりたいんだ」
「あいつって…弟さん、ですか?」
窓の外を見ながらアーサーさんは頷く。すっかり雨は止んで、雲も大分薄れてきているみたいだった。
薄暗かった部屋は少しずつ明るくなってきて、窓から入り込んでくる光が眩しくて私は数秒目を瞑った。
再び目を開けると、アーサーさんは窓から自分の掌へと視線を移動させて俯いていた。角張った細い腕からはあのスペインの無敵艦隊を撃破させる程の力など微塵にも感じられない。
その所為でこの人はずっと手袋を付けていた筈だけれど、今はその愛用の手袋もテーブルの上に置かれている。
「でも俺は愛し方を知らない。愛された事がない俺にあいつを愛することなんて出来ない。やり方がわからないんだ」
「そんな事無いですよ。私達国民は貴方を愛している。貴方は愛されてるんです」
「違う、それは国と国民との間に生まれる愛だ、俺は国としてじゃなくて、あいつを弟として愛したい。なのに、俺は、俺の、兄さん達からは、」
「…大丈夫、大丈夫です。イングランド、我が祖国。貴方は知っている筈です、貴方の国民はどうやって人を愛しているかを。何回も何回も見て来たでしょう?最初は真似るだけでも良いのです。そこから貴方が、貴方だけが出来る愛し方で弟さんを愛してあげてください」
また顔を歪める彼に何度も語りかける。大丈夫、大丈夫。貴方は愛されています。少なくとも私は貴方を愛しています。我が祖国、イングランド。
貴方は国と国民との間に生まれる愛だと言うけれど、それも立派な一つの愛。家族に対して抱く愛とは名前が違っていたとしても、私は貴方がこの国そのものだと知った時から家族へ対する愛情と同じ想いでこの国を愛してきたつもりです。
その想いは貴方に届いていないかもしれない。でも、貴方は幾度となく我が国で繰り返してきた生と死を見て来た筈です。その中には貴方が望む愛情もあるでしょう?だから大丈夫、大丈夫。
「祖国、どうか安心してください。貴方は愛する事が出来る人です」
「…」
「なんでしょう、アーサーさん」
薄く開かれた口から消え入りそうな言葉が紡がれる。集中していないと聞きとれない様な、そんな小声。
そっと彼の手を両手で包み込んで、冷え切っている手に熱を与える。私よりも冷たい、彼の体温。時にそれは心地良い温度だったりするけれど、今は私の体温の方が良い筈だろう。雨が降って気温が低くなっているのに、これ以上体温が下がってしまえば風邪を引いてしまうから。
首を傾げて言葉を催促するが、アーサーさんは少しだけ言い淀むように私から目を逸らした。同時に揺れる髪から僅かに潮の香りがして、鼻を擽った。
その香りに誘われて、また彼の髪を撫でる。今度は引っ張らないように、ゆっくり優しく。
「…お前は、幸せか?」
「ええ、幸せですよ。私は貴方であるこの国に生まれて、幸せです」
「……そうか」
だからどうか、我が祖国、愛されていないなんて悲しい事を言わないで。与えられる愛をどうか、受け取って。
頭を撫でている手はそのままに、反対の手を彼の背中に回してぽんぽん、と一定のリズムで軽く撫でる。
そして目を伏せ、紡ぐのは子供の頃に母から教えて貰ったナーサリーライム。昔から歌われているそれは彼にとっても慣れ親しんだ唄だろう。
耳障りにならない程度の音量でゆったりとした曲を時間を掛けて歌っていく。
大丈夫、大丈夫、イングランド、我が祖国。私は貴方を、この国を愛しています。貴方が私達国民を愛してくれている事も知っています。
貴方は無意識にそうしているのかもしれないけれど、それで良いのです。貴方は愛を知っているのです。だから大丈夫。
「幸せですよ、我が祖国。だからどうか、泣かないで」
「…泣いてねえよ馬鹿…」
「ええ、今はそう言う事にしておきましょう、祖国」
ロンドンの空はまだ、すっきりと晴れてはいなかった。
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ナーサリーライムは子守唄。こう言う話好きだけど書くとなると難しいですね。
[2010.01.06]
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